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Non-Duality Speaker , Early Buddhist Philosophy Teacher

現実での自分の在り方に苦しむ人々

うつ病にならない人々は「自分の求めているものや目指しているものと、現実での自分の在り方が食い違い、耐え切れなくなった」という発想をしないと、前回の記事で書いた。

うつ症状が表れ、自殺を選択する人々は「自分の求めているもの」「自分が目指しているもの」と「現実での自分の在り方」が食い違うと、人生を放棄したくなるほど苦しむ。

今回は、その「苦しみ」について考察する。

うつ症状が自殺の直接の原因としても、うつ症状が表れなければ自殺は防げると考えられる。「なぜ自殺するのか」は「なぜうつ症状を表すのか」と言い換えていいだろう。

人間の意識はとても複雑な構造をしている。「本人が自覚している自分」が「現実の自分」と同じとは限らないし、「他者が認識している自分」が「現実の自分」と同じとも限らない。
困ったことに、本当のあなたを理解している人はどこにも存在しない。

それはなぜだろうか。

恋愛に例えると分かりやすいだろう。「あの人のことを好きになるとは思わなかった」と本人が驚きをもって表現していても、第三者からすれば「好きになるだろうと思っていた」ということはありうる。

反対に「あの人のことを好きになるだろう」と予測していた人物が「まったく好意を示さない」ということもある。

「好み」は一人一人違うが、昨日は嫌いでも今日は好きということは考えにくい。ピーマンが嫌いな子供が、時々、ピーマンが大好物になるということはない。

恋愛の場合、嫌っていた相手のことを「すべて知っている」状態から嫌いになっているのではなく、「見かけた表面的なもの」から嫌いになっている。
そのため、「好み」にかかわる「知らない一面」を新たに知ったとき、「嫌いな人ではなく、好きな人だ」と訂正される。そして「好きになる」というわけだ。

もちろん、「好き」だと思っていたが、さらに「知らない一面」を知って、やっぱり「嫌いになる」ということもある。

「好み」は変わらないが、一人の人間を判定するとき、「好き」な部分と「嫌い」な部分が知られるようになって、都度、「愛している」か「愛していない」ということになる。

さらに、人間の脳には「認知バイアス」というものがあり、本来の価値に関係なく、脳がクセとして「価値判断を誤る」というものがある。

分かりやすい例として、「まだ手に入っていないもの」よりも「手に入っていて、これから失うもの」のほうが「価値が高い」と思い込む認知バイアスがある。「5年待てば100万円もらえる」よりも、「今、受け取らなければ70万円を受け取れなくなる」ほうを損と考えてしまうのだ。

新しい恋がどんなにすばらしいものでも、苦労したやっかいな交際相手との恋を失うほうが心を痛めるのは、認知バイアスなのである。それは残念ながら愛しているからではなく、脳が判断を誤っているのだ。

認知バイアスは一つだけではないので、さまざまな心理が複雑に働く。
恋愛がとてもむずかしいのは、「好き」「嫌い」の天秤だけでなく、この認知バイアスが悪さをして、自分らしい判断を誤ることが起因している。

認知バイアスにだまされない方法は、「客観的に自分を見る」ことが有効だ。恋愛相談を受けた友人が「冷静になって!」とアドバイスをするのは、冷静になって自分を振り返れば、正しい判断ができるはずだと友人が信じているからである。

ところがである。
「客観的に自分を見る」という能力は、脳によって高度な機能らしく、「メタ認知機能」を鍛えないと、「自分のことを客観的に見る」ことができない。

つらい恋に振り回されている友人を説得しても聞き入れてくれないのは、あなたのアドバイスが下手だからではなく、友人の「メタ認知機能」が未熟だからなのである。その証拠に、あなたのアドバイスで目を覚ます友人もいるはずだ。「メタ認知機能」が成熟していると、人のアドバイスをすなおに聞くことができ、自分でもうすうす気づいている。「自分のことを客観的に見れば、この恋は自分をだめにする」と。

ここまで来て、わたしの言わんとしていることをご理解いただけるだろうか。

「自分の求めているものや目指しているものと、現実での自分の在り方が食い違い、耐え切れなくなった」という感覚は、「自分自身を客観的に見ることができていない」からなのである。

この「苦しみ」の構造は「最悪の交際相手に振り回されている友人が恋をあきらめられず苦しんでいる」構造とまったく同じであり、そこには心理学的な「依存」が潜んでいる。

「自分」対「世間」か、「自分」対「交際相手」の違いだというわけだ。

恋愛では、交際相手から愛されたいと望む。しかし「愛したい相手」と思われなくなった現実が、自分を苦しめる。このとき「ひどい交際相手」と正しく判断すれば、「自分が愛されないのは、自分のせいではない」となるが、認知バイアスでは「自分がほれた相手なのだから、ひどい人であるはずがない」という考え方からスタートし、「あれほど愛された自分は、これからも愛されるはずなのに、今は愛されていない。その理由は、以前の自分と比べて、今の自分は変わってしまったからじゃないか? それとも、いたらない自分がバレてしまったんじゃないか?」と考えてしまう。

すると、選択肢は二つである。「以前の愛されていた自分に戻る」か「いたらない自分がバレたのなら、改善する」ということになる。

といっても、「以前の愛されていた自分に戻る」というのは簡単だから、すぐに効果はないと気づく。結局、選択肢は一つだ。「自分の改善点があれば、どんどん改善しよう」と決意して、いっそう恋に振り回されるのである。

三浦春馬さんと木村花さんは、世間とのかかわりで悩んだのであるから、「自分の人気は世間のおかげであって、今までの収入や充実感を授けてくれた世間が悪い人たちだとは思えない」と考えてしまった。
そして、唯一の選択肢である「自分の改善点があれば、どんどん改善しよう」となるが、そもそも誹謗中傷する人々は、断じて世間代表ではない。そこに話し合いの可能性はゼロなのである。まして、赤の他人が事情も知らずに誹謗中傷する時点で、「人格否定」が目的なのである。これを恋愛に例えれば「プライドをズタズタにするために近づいてきた異性」だということになる。相思相愛のフリをして近づいてきた異性が、ある日突然に「人格否定」して攻撃してくるのだ。それは、確かに人格を崩壊させるほどのダメージがあると想像できる。

三浦春馬さんと木村花さんは、誹謗中傷する人々が悪い人たちだとは思っていなかったのだ。
そのため、「人格否定」されたとき、「ただの嫌がらせだ」とは考えられなかった。「自分のいたらない部分がバレてしまった」と信じてしまったのである。三浦春馬さんは「誹謗中傷」の中に「真実の自分が少しでもある」と思い込んだ可能性がある。木村花さんも同様に否定できなかった。

三浦春馬さんも木村花さんも「現実の自分」「本当の自分」を低く見積もっていた可能性がある。併せて、「世間」あるいは「誹謗中傷してきた人々」を高く見積もっていた。

ここに「メタ認知機能」が未熟な人々の悲しい現実がある。

第三者から見れば、三浦春馬さんも木村花さんも尊敬に値する存在である。誹謗中傷した人々からすれば、攻撃に値するほど、うらやましい存在だ。三浦春馬さんも木村花さんもそのような嫉妬心をじゅうぶんに理解していなかった。「メタ認知機能」が成熟していなければ、自分に向けられた他者の感情がどういうものなのかが理解できないからだ。

三浦春馬さんも木村花さんも「自分が相手を不快にさせた」という事実を深刻に受け止めてしまった。それは、自分に非があると考えた。誹謗中傷の中身が100%真実ではなくても、25%でも自分のせいだと考えてしまった。それは、同じ失敗をしない人からすれば、怒りに値するものだと思い込んだ。

ここまで来て、ご理解いただけただろうか。三浦春馬さんも木村花さんも「誹謗中傷する人々の怒りは、自分のような悪いことをしない人々だから怒っているのだ」と考えてしまったのである。三浦春馬さんも木村花さんも「嫉妬心から、非がない相手を攻撃する」という発想がないのである。

「誹謗中傷する人々」よりも「自分のほうが悪い人」という結論が出てしまったのである。

このようなことで深刻に悩む人は、「メタ認知機能」が未熟なために、どれだけ周囲の人に迷惑をかけているか、程度を正しく判断できない。そのため、深刻に悩んでいる分、周囲の人に深刻な迷惑をかけているとも思い込む。三浦春馬さんは次の撮影が始まる前に命を絶ったという。これは正に「撮影が始まってから自殺をすると、たいへんな迷惑をかける」と考えているからである。今のうちなら、同じ深刻さでも、少しは和らぐと考えたのだ。

心が清らか過ぎて、心が汚い人に罵られ、自分のほうが汚いと思い込んだ悲劇なのである。

わたしは願う。義務教育で「メタ認知機能」を鍛える授業をしてほしいと……。

「メタ認知機能」のトレーニングの普及は、わたしにとって人生を捧げる価値がある。この混乱から、苦しむ人々を救ってあげたい。

自殺する人としない人の違い

三浦春馬さんの自殺は世間を驚かせた。

真相は断定できず不明とされているが、原因の一つとされる「ネット上の誹謗中傷」は、近い時期に同じく自殺した女子プロレスラー木村花さんと同じ理由となることから、わたしは「ネット上の誹謗中傷で自殺する人としない人の違いは何だろうか」と気になった。

自殺をした有名人の遺書や親しい人の証言から「自分の求めているものや目指しているものと、現実での自分の在り方が食い違い、耐え切れなくなった」というものが多い。

自殺をしない人でも、その自殺理由に共感する者はいるだろうが、まったく共感できないどころか、同じ理由では自殺の発想をしないという者さえいる。恐らく、自殺をしない人と言い切れる人々だといえるだろう。

では、自殺を予防する可能性を模索するうえで、自殺をしない人の考え方が参考になるのではないかと思うのだが、そのような風潮は見受けられない。

それは「共感できる人」を「人の心が分かる人」と解釈する傾向が少なからず社会の中にあり、自殺しない人たちは自殺する人に共感できなくても「人の心が分からない人」と言われてしまうことを避けて口をつぐむか、共感しているふりをしている可能性があるように思う。

結果として、別の理由で共感できない人が「一人の人間を自殺まで追い込む」事態は起きても、自殺してしまってからは「自殺に関してネガティブな発言はしない」という選択肢を選び、自分のふるまいを切り替えてしまって、自殺前と自殺後では場の空気の連続性が断たれてしまう。

これが自殺の真相をややこしくし、本人の思考と現実とのずれを感じさせ、解明を不可能にさせているように思われる。

「ネット上の誹謗中傷」を原因としない自殺のケースでは、闘病苦や借金苦、反社会勢力とのトラブル、うつ病などが考えられるが、「ネット上の誹謗中傷」が原因でうつ病になり自殺を選ぶことはあっても、「ネット上の誹謗中傷」と比べて闘病苦、借金苦、反社会勢力とのトラブルなどは明確な絶望を感じてしまうことは想像に難くない。

反対にいえば「ネット上の誹謗中傷」で明確な絶望があるとすれば、仕事に悪影響が出て、収入が激減したり、将来に不安を感じたりした場合に限る。

三浦春馬さんの自殺理由を理解しづらくさせているのは、正にこの部分なのである。仕事は順調であったし、周囲の人間からは心配する声はあっても、おおごとだとは思っていなかった。木村花さんもテレビの演出に屈服することなく闘えば、木村花さんを応援する者は多かったことだろう。

従って、三浦春馬さんにしても木村花さんにしてもうつ症状があったことは否めない。

さて、では自殺しない人がなぜうつ病にならないのかが重要となる。

「自分の求めているものや目指しているものと、現実での自分の在り方が食い違い、耐え切れなくなった」という聞き慣れた文言は、十分にうつ病の原因になるのかもしれない。

ならば、うつ病にならない人々は「自分の求めているものや目指しているものと、現実での自分の在り方が食い違い、耐え切れなくなった」という発想をしないということになる。

「自分の求めているもの」「自分が目指しているもの」と「現実での自分の在り方」が食い違うと、どのような苦痛が立ち現れるのだろうか。

この考察は、次回、掘り下げる。

心に響く歌

深夜のテレビ番組でMVが流れていた。
自我があった頃が懐かしく感じられる歌だった。

サイコパスという存在を受け入れてから

脳科学者中野信子さんの書籍で「サイコパス」を詳しく知ることができ、人々が思っている以上に多くいることを受け入れてから、自分でも驚くほどの心境の変化があった。

「サイコパス」を理解するまでは、人間の「悪意」を心理学的にどう解釈したらいいのかがわからなかった。この世で生きていくうえで、何をするか分からない「悪人」を正しくかぎ分けて避けることはほぼ不可能だからだ。

予測できない恐怖におびえながら、心理学という蓄積された英知を通して「悪意」を知ろうとした。そうしているうちにも、「悪意ある店員」や「悪意ある顧客」、ネット上の「悪意ある書き込み」などと遭遇する。これは、わたしだけの体験ではないはずだ。

そんな生まれてから年齢分の経験から裏打ちされた世界観を、簡単に崩壊させてくれる情報に出合う。数年前に「発達障害者は少なく見積もっても10人に1人、多く見積もれば5人に1人はいる」と知った驚きのように、中野信子さんの書籍で「サイコパスは理論的には20人に1人はいる」と知って、想像以上に身近であることに納得したのだ。20人に1人と理論的にいえるならば、境目(ボーダー)も含めれば10人に1人はいる計算と見てよい。

確かに今までの人生を振り返ってみれば、公立の中学校のような人為的偏りがない、さまざまな学力の生徒がいる環境で、非行少年と呼ばれていた一部の生徒の割合はサイコパスの比率と一致する。

彼らの特徴は「自分自身が危機に陥るという恐怖心を感じにくい脳」だそうだ。しかられるという恐怖心も、懲罰を受けるという恐怖心も、暴力を受けるという恐怖心も、後で自分が損するかもしれないという恐怖心さえも鈍いという。

とはいえ、サイコパスではない人々と同じような比率でIQ分布があり、低IQのサイコパスもいれば、高IQのサイコパスもいるという。
従って、低IQのサイコパスはチンピラのようになるが、高IQのサイコパスは薄情なインテリのようになる。

そして、これが脳の問題だけに、極端なサイコパスだけでなく、少しだけサイコパスという者もいるというのである。

もっと言えば、子供はサイコパスからスタートし、大人になるにつれてサイコパス度が下がるのだが、自我の成長も加味すると、思春期がもっともサイコパス度が高い時期だという。

わたしは男であるので、男だけに限った残念な情報もあった。
男は性的興奮が高まると、性的対象に対し、サイコパスっぽい脳に変化するという。

思春期といい、男の性的興奮といい、実はだれにとってもサイコパス症状は身近なものだったのだ。

男女問わず、思春期の恋のもつれはサイコパス症状だったのである。
男性に限り、変態的な性的嗜好もサイコパス症状だったのである。

少しややこしくなってきたので、ここで整理しよう。
まず脳科学的に20人に1人の割合で「ずっとサイコパス症状」のサイコパスがいるということ。わたしはこれを実情で考えれば10人に1人の割合と見ている。
次に、サイコパスではない普通の人でも「思春期サイコパス症状」と「性的嗜好サイコパス症状」は発症するということ。

「ずっとサイコパス症状」のサイコパスを見分ける方法は、「デスクワークが苦手」「チームワークが苦手」「恐怖心がない」「饒舌」「性欲が強い」の5つであると脳科学で解明された。

世間一般でいわれている「サイコパス」=「凶悪犯罪者」というのは必ずしも当てはまらず、生育環境によって決まる。

そもそも、弁護士や医師などはサイコパス度が少しでもないと務まらないという。

これらのことを理解し受け入れてから、「悪意」というものが把握できるようになった。「悪人」を正しく察知し、当人なりの保身によるものだということも理解できる。わたしにとって、予測できないものではないと理解できたことは、自分でも驚くほど自分自身に平穏を与えてくれた。

すると、まるでブロックが外れたように、歴史上の人類の恐ろしい悪事の真実を知る体験が増えた。サイコパスを受け入れる前のわたしでは、到底受け入れられなかったであろう残酷さであった。

その一つが「従軍慰安婦」のために存在する韓国の団体が、従軍慰安婦への日本人からの寄付金を従軍慰安婦だった女性たちに渡さずに、運営者が使い込んでいた問題である。女性の性を食い物にした日本帝国軍の従軍慰安婦制度にも嫌気がさすが、従軍慰安婦制度に関する日本人の罪悪感さえも食い物にした韓国の団体の運営者にも吐き気が催した。

さらに、もう一つ吐き気が催した歴史的事実があった。
終戦直後、満州にソ連軍が侵入したが、民間人の命が脅かされ、ソ連軍と民間人との間で取引された。命と引き換えに若い日本人女性が集団レイプの犠牲となった。それだけでも恐ろしい事実である。
そこへ、新たな事実が追加された。そもそも満州に住んでいた日本人女性は、就職のつもりで満州へ渡り、実は無理やり嫁にされた女性だったという。日本人女性たちに「嫁にするため」という大義名分が先で、就職して自立するという触れ込みはうそだった。途中で「強制的に嫁にされる」と知った女性たちは逃げ出す者もいれば、半ばあきらめて渡航した者もあったという。実際、満州へ渡ってしまうと、だれかと結婚しなければ生きていけない。妥協して結婚し体を許した。
終戦を迎えると今度は言葉の通じない白人に乱暴にされて数十人にレイプされるのである。数百人だったかもしれないが、それは調べようがない。
この事実で吐き気を催したのはもっと先に進んだ場面であった。
彼女らはレイプに耐えられず自殺するか、性病で死ぬか、妊娠で死ぬか、生きて耐えた。必ずだれかがレイプ被害に遭わないと、村の人々の命が奪われてしまう。正にいけにえ状態であったが、多くの女性が命を落とし、耐え抜いた女性はソ連軍が撤退した後、生活のために中国人と結婚した。敗戦した日本は引き揚げ船をなかなか用意できなかったからだ。
わたしが読んだ事例では、その女性は中国人と結婚した後、日本の引き揚げ船に乗るチャンスに恵まれ、中国人の夫を説得し、日本に帰れたという。無事に長崎に到着し、そこで待っていたのは「妊娠チェック」と「堕胎」であった。日本政府は「日本人の純血を守るべき」とし、彼女らに無理やり堕胎させたのだった。そして、その公式記録は抹消された。ただ、不可解な多くの手術の件数だけが記録に残っている。
わたしは吐き気を催した。

サイコパス云々の前に、社会的差別のほうが恐ろしい。
サイコパスを受け入れると、人間の悪事を直視できるようになったのはいいが、想像以上に人間は残酷であるという事実が浮かび上がる。

団体や社会を相手にするよりも、一人一人誠実に向き合ったほうが平和を実現できるような気がする。
いや、それこそが真実なのであろう。
集団心理の滑稽さは新型コロナウイルス・パンデミックでも露呈したとおりである。

断じて、集団心理こそ人間の本性なのではない。一人一人向き合ってこそ、人間の本性に触れられるということなのである。
これだけは、間違えてはならないとわたしは理解した。

未曾有のパンデミックに見る違和感の正体

これは人類の本質なのかもしれない。いや、もしかすると、これこそが人類を構造主義的に解釈する鍵なのではないか。
連日の報道では新型コロナウイルスによって「危機感が高まる情報」と「沈静化を促す情報」が入り乱れて、恐怖と安心とが繰り返し繰り返し伝えられる。
これに対し、世間では「過剰に反応し、警戒する人々」と「安易に考え、平常時と変わらない人々」に分かれた。
すると、報道は過熱する。「過剰に反応し、警戒する人々」に向かって「沈静化を促す情報」を流し、「安易に考え、平常時と変わらない人々」には「危機感が高まる情報」を送るのだ。
問題は、これら真逆の情報が同一のメディア、同一の発信者から一般の一人一人に向けて無差別に繰り返し繰り返し伝えられていることなのである。一般人各自はどちらの情報も自分へ向けてのメッセージに解釈してしまうのだ。
もはや、危機なのか、安全なのか、メッセージの趣旨がつかめなくなる。

どうやら、私たちの脳は、このように真逆の意味が入り交じった情報に遭遇すると理解できないばかりか、ストレスに感じて不可解な行動に出るようである。
その最たるものが「デマに翻弄される人々」や「買い込み」「差別」である。マスク不足を防ぐためのマスク転売禁止によって、手作りマスクの販売までも禁止する事態も含まれるかもしれない。

私はこの違和感について早くから興味を抱いていたが、そもそもの新型コロナウイルスの情報の解釈に苦悩した。新型ウイルスであるがゆえに科学的解明が遅れているが、それは発信者にとっては「警告し過ぎてもだめ」「安心させ過ぎてもだめ」というジレンマに陥ざるを得ないものである。そんなジレンマが解消されないまま報道では発信し続けなければならないのであるから、解釈の苦悩は当然だ。
そこで、私は安易に新情報さえそろえば、この苦悩から解放されると考えた。ジレンマさえなくなれば、一般の人々の混乱はなくなると思えたのだ。
私は早速、有効活用が可能なレベルに達した新情報を集めて「コロナ・パンデミック?」を書いた。2020年2月20日付である。

1月から注目され、2月から騒動が起き、3月には全世界でパニックを起こしている新型コロナウイルスについて3月25日現在、報道の努力によって新情報がほぼ出そろい、今の私がわざわざ発信せずとも周知の事実になったものと思われるのだが、私の分析に反して一般の人々の混乱は増しているように見える。
私が抱いた違和感は世間では解消されていないのだ。私自身が感じていた違和感は「コロナ・パンデミック?」の記事でまとめることによって解消されている。世間に蔓延している混乱は、私自身が感じていた違和感とはそもそもの原因が違うようだ。

数か月前から、平均IQの人々の思考パターンを理解するために認知バイアスを調べていた。そのほか、脳科学関連書籍にも目を通していた。
世間の人々が未曾有のパンデミックに遭遇して、認知的不協和に苦しんだり、正常性バイアスによって危機感が薄らいだりすることは理解できる。
そのため、認知的不協和と正常性バイアスを解決するための情報整理を「コロナ・パンデミック?」にて自分なりに実現したわけだが、今回の文章を書くにあたり、もうひとつの理論、二重拘束(ダブルバインド)を思い出した。
調べてみると、一般の人々の不可解な行動は、ダブルバインド・セオリーにおける被害者の症状と一致しているように見える。症状とは以下の3つである。

  • 言葉に表されていない意味にばかり偏執する(妄想型)
  • 言葉の文字通りの意味にしか反応しなくなる(破瓜型:はかがた)
  • コミュニケーションそのものから逃避する(緊張型)

引用:ダブルバインド – Wikipedia

妄想型は「たいしたことない」「自分の周囲には感染者はいない」「マスクの生産によって紙が不足し、トイレットペーパーが足りなくなる」などである。
破瓜型は「感染したら死ぬ」「出歩けない」「風邪の症状が出たらすぐに相談センターや医療機関に相談する」「デマを信じる」などである。
緊張型は「感染を恐れて仕事を退職する」「外出を一切しない」「マスクをせずに咳をしている人がいたら感染者の可能性があるので排除する」などである。
二重拘束は二重規範(ダブルスタンダード)のように区別がつきづらい可能性があり、多くの者が自覚せずにこの症状で正気を失っていると思われる。

この症状を自覚できない脳は、メッセージとメタメッセージが矛盾するコミュニケーション状況におかれると、認知的不協和にさらされて、矛盾を解決できない場合にこの症状に見舞われるのだろう。
新型コロナウイルスの例に照らすと、報道による危機的メッセージと、あまり感染者がいないように見える日常のメタメッセージとの矛盾が解決できないと、「買い込み」「差別」「デマに翻弄される」という事態に陥るということである。
反対に「買い込み」「差別」「デマに翻弄される」といったことがない人々は、自らのIQによって矛盾を解消し、ダブルバインドに陥っていないということになる。
「買い込み」「差別」「デマ」が社会現象になっていることから、平均IQではこの矛盾を解消できないということなのだろう。
これでは個人主義を貫き、自己責任に任せると全世界が無法地帯と化す。それがこのたびのパンデミックの世界の実情だということである。

その解決方法はないのであろうか。
方法を見つけることは簡単である。矛盾を自力で解消できない人々に向けて、矛盾を解消した考え方を提供すればいいのである。
報道は事実を伝えることが主目的であるが、事実のみを提供して、判断は各自に任せるとしてしまうと、必ずしも正しい理解には到達しない。というか、絶対に到達できない。
それよりも専門家の見解を明確にして、出た結論のみを伝えることのほうが、社会的混乱を防ぐことができる。ここまで来ると報道の範疇を超えるため、政治家が引き受け、報道は仲介のみにするのが相当だろう。

さまざま報道される世界の実情から、もっとも印象的だったニュースがあった。「『買い占めはやめて!』48時間勤務の看護師、食べ物を確保できず涙の訴え – BBCニュース」である。

新型コロナウイルスの感染拡大を受け、多くの国で買い占めが起きている。
こうした中、1人の疲弊した看護師が、買い占める人々に対し、ほかの人のことを考えるよう涙ながらに訴えた。
イギリス・ヨーク在住のドーン・ビルバラさんは、救命救急の看護師として働いている。
48時間勤務を終えて立ち寄ったスーパーマーケットの棚には、野菜や果物は残っていなかったという。
ビルバラさんは、人々が具合が悪くなった時に治療に当たるのは、自分のような英国民保健サービス(NHS)のスタッフであり、任務を遂行するには健康を維持する必要があると説明。買い占めをやめるよう求めた。

これは一個人が世間の一人一人に訴えてどうにかなるものではない。有志が集まり組織的に解決するか、先ほどの私の提言のように国や自治体が医療従事者を保護するべき問題である。
人類は各自の判断によって社会を動かすことができない。二重拘束に至ると妄想型、破瓜型、緊張型の3パターンに分かれる。正確に言えば二重拘束に陥らなかった高IQの人々も含めて4パターンになるだろう。
高IQの者が革命家となり、最良の方法を実現するため、平均IQの人々を扇動し、社会の構造を変えていく努力をしなければ、社会は崩壊に向かう。
さあ、あなたはダブルバインド・セオリーでいう被害者であろうか。それとも、ダブルバインドに陥らない革命家であろうか。
あなたはどちらでありたいだろうか。

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