SOWA YAMANAKA OFFICIAL SITE

Non-Duality Speaker , Early Buddhist Philosophy Teacher

未曾有のパンデミックに見る違和感の正体

これは人類の本質なのかもしれない。いや、もしかすると、これこそが人類を構造主義的に解釈する鍵なのではないか。
連日の報道では新型コロナウイルスによって「危機感が高まる情報」と「沈静化を促す情報」が入り乱れて、恐怖と安心とが繰り返し繰り返し伝えられる。
これに対し、世間では「過剰に反応し、警戒する人々」と「安易に考え、平常時と変わらない人々」に分かれた。
すると、報道は過熱する。「過剰に反応し、警戒する人々」に向かって「沈静化を促す情報」を流し、「安易に考え、平常時と変わらない人々」には「危機感が高まる情報」を送るのだ。
問題は、これら真逆の情報が同一のメディア、同一の発信者から一般の一人一人に向けて無差別に繰り返し繰り返し伝えられていることなのである。一般人各自はどちらの情報も自分へ向けてのメッセージに解釈してしまうのだ。
もはや、危機なのか、安全なのか、メッセージの趣旨がつかめなくなる。

どうやら、私たちの脳は、このように真逆の意味が入り交じった情報に遭遇すると理解できないばかりか、ストレスに感じて不可解な行動に出るようである。
その最たるものが「デマに翻弄される人々」や「買い込み」「差別」である。マスク不足を防ぐためのマスク転売禁止によって、手作りマスクの販売までも禁止する事態も含まれるかもしれない。

私はこの違和感について早くから興味を抱いていたが、そもそもの新型コロナウイルスの情報の解釈に苦悩した。新型ウイルスであるがゆえに科学的解明が遅れているが、それは発信者にとっては「警告し過ぎてもだめ」「安心させ過ぎてもだめ」というジレンマに陥ざるを得ないものである。そんなジレンマが解消されないまま報道では発信し続けなければならないのであるから、解釈の苦悩は当然だ。
そこで、私は安易に新情報さえそろえば、この苦悩から解放されると考えた。ジレンマさえなくなれば、一般の人々の混乱はなくなると思えたのだ。
私は早速、有効活用が可能なレベルに達した新情報を集めて「コロナ・パンデミック?」を書いた。2020年2月20日付である。

1月から注目され、2月から騒動が起き、3月には全世界でパニックを起こしている新型コロナウイルスについて3月25日現在、報道の努力によって新情報がほぼ出そろい、今の私がわざわざ発信せずとも周知の事実になったものと思われるのだが、私の分析に反して一般の人々の混乱は増しているように見える。
私が抱いた違和感は世間では解消されていないのだ。私自身が感じていた違和感は「コロナ・パンデミック?」の記事でまとめることによって解消されている。世間に蔓延している混乱は、私自身が感じていた違和感とはそもそもの原因が違うようだ。

数か月前から、平均IQの人々の思考パターンを理解するために認知バイアスを調べていた。そのほか、脳科学関連書籍にも目を通していた。
世間の人々が未曾有のパンデミックに遭遇して、認知的不協和に苦しんだり、正常性バイアスによって危機感が薄らいだりすることは理解できる。
そのため、認知的不協和と正常性バイアスを解決するための情報整理を「コロナ・パンデミック?」にて自分なりに実現したわけだが、今回の文章を書くにあたり、もうひとつの理論、二重拘束(ダブルバインド)を思い出した。
調べてみると、一般の人々の不可解な行動は、ダブルバインド・セオリーにおける被害者の症状と一致しているように見える。症状とは以下の3つである。

  • 言葉に表されていない意味にばかり偏執する(妄想型)
  • 言葉の文字通りの意味にしか反応しなくなる(破瓜型:はかがた)
  • コミュニケーションそのものから逃避する(緊張型)

引用:ダブルバインド – Wikipedia

妄想型は「たいしたことない」「自分の周囲には感染者はいない」「マスクの生産によって紙が不足し、トイレットペーパーが足りなくなる」などである。
破瓜型は「感染したら死ぬ」「出歩けない」「風邪の症状が出たらすぐに相談センターや医療機関に相談する」「デマを信じる」などである。
緊張型は「感染を恐れて仕事を退職する」「外出を一切しない」「マスクをせずに咳をしている人がいたら感染者の可能性があるので排除する」などである。
二重拘束は二重規範(ダブルスタンダード)のように区別がつきづらい可能性があり、多くの者が自覚せずにこの症状で正気を失っていると思われる。

この症状を自覚できない脳は、メッセージとメタメッセージが矛盾するコミュニケーション状況におかれると、認知的不協和にさらされて、矛盾を解決できない場合にこの症状に見舞われるのだろう。
新型コロナウイルスの例に照らすと、報道による危機的メッセージと、あまり感染者がいないように見える日常のメタメッセージとの矛盾が解決できないと、「買い込み」「差別」「デマに翻弄される」という事態に陥るということである。
反対に「買い込み」「差別」「デマに翻弄される」といったことがない人々は、自らのIQによって矛盾を解消し、ダブルバインドに陥っていないということになる。
「買い込み」「差別」「デマ」が社会現象になっていることから、平均IQではこの矛盾を解消できないということなのだろう。
これでは個人主義を貫き、自己責任に任せると全世界が無法地帯と化す。それがこのたびのパンデミックの世界の実情だということである。

その解決方法はないのであろうか。
方法を見つけることは簡単である。矛盾を自力で解消できない人々に向けて、矛盾を解消した考え方を提供すればいいのである。
報道は事実を伝えることが主目的であるが、事実のみを提供して、判断は各自に任せるとしてしまうと、必ずしも正しい理解には到達しない。というか、絶対に到達できない。
それよりも専門家の見解を明確にして、出た結論のみを伝えることのほうが、社会的混乱を防ぐことができる。ここまで来ると報道の範疇を超えるため、政治家が引き受け、報道は仲介のみにするのが相当だろう。

さまざま報道される世界の実情から、もっとも印象的だったニュースがあった。「『買い占めはやめて!』48時間勤務の看護師、食べ物を確保できず涙の訴え – BBCニュース」である。

新型コロナウイルスの感染拡大を受け、多くの国で買い占めが起きている。
こうした中、1人の疲弊した看護師が、買い占める人々に対し、ほかの人のことを考えるよう涙ながらに訴えた。
イギリス・ヨーク在住のドーン・ビルバラさんは、救命救急の看護師として働いている。
48時間勤務を終えて立ち寄ったスーパーマーケットの棚には、野菜や果物は残っていなかったという。
ビルバラさんは、人々が具合が悪くなった時に治療に当たるのは、自分のような英国民保健サービス(NHS)のスタッフであり、任務を遂行するには健康を維持する必要があると説明。買い占めをやめるよう求めた。

これは一個人が世間の一人一人に訴えてどうにかなるものではない。有志が集まり組織的に解決するか、先ほどの私の提言のように国や自治体が医療従事者を保護するべき問題である。
人類は各自の判断によって社会を動かすことができない。二重拘束に至ると妄想型、破瓜型、緊張型の3パターンに分かれる。正確に言えば二重拘束に陥らなかった高IQの人々も含めて4パターンになるだろう。
高IQの者が革命家となり、最良の方法を実現するため、平均IQの人々を扇動し、社会の構造を変えていく努力をしなければ、社会は崩壊に向かう。
さあ、あなたはダブルバインド・セオリーでいう被害者であろうか。それとも、ダブルバインドに陥らない革命家であろうか。
あなたはどちらでありたいだろうか。

日本文化特有の霊性に取り込まれた仏教

日本仏教を調べるために、まず根本のインド仏教や釈迦自身を史実から調べていたが、日本仏教とインド仏教はこんなにも違うのかと知るだけでは足りないのだと、昨日知った。

お恥ずかしい話だが、日本人の宗教観は土着の信仰である神道と、伝来後主流となった仏教を知ればいいと思い込んでいたのだが、神仏習合によって神道と仏教が入り交じった信仰はまったく別の進化を遂げていたことを今になって知ったのである。

そのきっかけは、釈迦のさとりを解説する本を執筆していた際に、日本人が抱いているあの世のイメージが必ずしも仏教の教義と一致しないことに気づいたからである。

変なのである。日本人が抱いているあの世のイメージは、本来の仏教の教えとは全然違うのだ。

仏教では教えていないことなら、神道の教えかというと、神道にはもともと教義がないのだから、それもあり得ないのである。

たまたま持っていた本で、購入当時は今以上に頭が固かった私は迷信めいたものを読み飛ばしていたため記憶に残っていなかったのだが、処分する前に目を通してみたら、肝心の神仏習合によってはぐくまれた純日本的な霊的文化が掲載されていたのである。

仏教の書籍では当然のことのように「日本は祖霊崇拝の文化」だと書かれているが、それは「日本人が抱くあの世のイメージ」を日本人なら知っているだろうとしてわざわざ書かずに、かつ、仏教関連書籍として仏教以外のことにページを割けないということで、暗黙の了解とされてしまっていた。

北海道育ちで、実家が新興宗教の信者であったから、むしろそういった昔ながらの祈祷やおまじないのような迷信めいたものには縁がなかった。新興宗教を信仰しないと宣言した私は、これ以上に独特の信仰が日本文化に根付いているとは想像もしなかった。

仏教では「さとりを開き、来世(転生後の人生ではなく、あの世)で転生せず苦しまない存在になる」ことを目指す。

日本仏教が定着しているはずの日本人はそのようには考えない。
日本仏教の僧侶は言う。「他界してから、出家したことにするために、戒名(出家してから、もらう名前)をつけて、法事でお経を故人に聞かせることでさとりに導き、追善供養の五十回忌の弔い上げをもって成仏(さとりを開いた)と考える」と。
ところが、日本人の多くは仏教の教えを詳しくは知らない。そもそも、さとりを開きたいと思っているわけでもない。浮かばれないでさまよっている霊にはなってほしくないから法事を頼んでいるふしがある。
では、浮かばれたらどうなるかというと、さとりを開きたいと望んでいない一般人は、浮かばれることで天国に上がれると思っているようだ。天国に上がれば、過去に亡くなった家族と再会できると考える。
葬儀や追善供養で天国に上がれると思っているが、葬儀で直ちに上がれると考える人もいれば、四十九日法要で、あるいは、一周忌で上がれると思っている人もいる。三回忌、七回忌、十三回忌がなぜ必要かは考えない。
「成仏=天国に上がること」なのである。天国に上がっていないので上がるために追善供養をするのか、天国に上がってからも追善供養をしたほうがいいと何となく思ってするのかは人それぞれだ。

仏教で基本的な教えである生まれ変わりについては、僧侶も一般人も触れない。とにかく、浮かばれること、さとりとは無関係な成仏を実現すること、天国に上がることを目指す。

こういった日本人特有のあの世のイメージを本の執筆中に気づき、気にかけていた。
そこへ、昨日、目を通した処分予定の本に、神仏習合によって古来日本文化の中で発展してきた日本特有の霊性が掲載されていて、仏教ではない、なぞの信仰心の正体がわかったのである。

日本特有の霊性とは、神道と仏教が融合した、山岳信仰が中心に据えられている修験道である。仏教伝来する前は、中国大陸の道教が神道に取り込まれ、山岳信仰を形成した。そこへ、仏教が加えられて修験道として完成したのだ。
神仏習合では神官と僧侶の区別がなく、日本仏教といわれながらも、インド仏教や中国仏教と比べればまったく別物といっていい宗教と化していた。祝詞とお経と真言を使いこなし、陰陽道のように式神を操り、神の使いである眷属を操るのだ。

もはや「帝都物語」……、いや、今風にいうなら「鬼滅の刃」である……。

釈迦の教えはどこへやら、である。修験道の修行者は祝詞やお経、真言を呪文として使いこなして願いをかなえる。釈迦と対立したといわれるバラモン教(ブラフマン教)の祭司が明呪を唱えて願いをかなえることとまったく同じことをしているのである。
人間の根本的なところは同じなのだと痛感させられる。

どおりで、日本中のあちらこちらにキツネの霊だの、ヘビの霊だのがいっぱいいるわけだ。日本仏教にはしっかりと、一般人がかかえるイメージを払拭し、仏教の教義を広めていただきたいものだ。断じて仏教とキツネやヘビは一切関係がない。仏教では眷属というものが存在しないのだ。このままでは日本仏教というよりは、日本教である。眷属使いが祭司となって信者を集める宗教である。日本特有で、日本文化として完成されているのだ。僧侶は修験道の修行者ではないのだから、はっきりしていただきたいものだ。

コロナ・パンデミック?

近所のコンビニやドラッグストアからマスクが消えた。入荷の目途が立たないという。
連日、感染者が何人だ、どこで感染者が見つかった、と繰り返し報道されている。
周囲からも「感染したらどうしよう」とか「感染者がどこにいるかわからないから怖い」といった声が聞かれる。

私は先月の時点で、新型ウイルスがどの程度のものなのか調べた。先月の時点では正確な数字は出ていなかったが、ほかに知られている新型ウイルスのSARS(2002年)、MERS(2012年)よりは致死率は遥かに低いらしい。
では、なぜ世間で騒がれているのだろうか。インフルエンザが大流行しても死者が出る。インフルエンザより深刻だからだろうか。
私が見たネットの情報では正確な情報がないとしながらも、深刻に考えるほどではないとの結論だった。

知人から、近所の病院での様子を聞いた。看護師がマスクを2枚重ねていたという。そして、看護師が何人も辞めてしまったらしい。
素人ではない医療従事者である看護師が異常反応しているようだ。これには耳を疑った。
知人は持病の処方箋をもらうために受診したが、ついでに風邪気味であることを伝えると、診察もそこそこに医師からすぐに帰宅するように言われたという。

医師の判断は正しいように思う。報道でも感染が疑われるかたはすぐに病院には行かないように伝えている。政府や自治体が用意した相談窓口に問い合わせるようにとのことだ。
それには理由がある。入院患者に感染すると、院内感染で急激に広がる可能性がある。そんなことになれば、ほかの疾患との合併症で死者が増えてしまうのだ。
中国の湖北省で死者が多いのはそのせいだとの見方もある。間違っても入院中の患者に感染症をうつしてはならないのだ。

医師はともかくとして、看護師の姿には開いた口がふさがらない。そもそもマスクは「自分がうつらないため」ではなく、「人にうつさないため」にするものである。
感染者と2メートル以内に接近する場合には飛沫感染によって「自分がうつらないため」という効果は期待できるが、どちらにしても通常の風邪と対応は変わらない。
看護師が辞めてしまい、人手不足になっているので、感染して仕事を休むわけにはいかないという意味では慎重なのはいいが、マスクを2枚重ねて使うというのはさすがにやり過ぎである。

恐れているかたがたを観察していると、どうやら「感染したら死ぬ」と思っているようだ。それならばインフルエンザであっても「感染したら死ぬ」ことはありうる。
現時点で正しい数字はまだ出ていないようだが、専門家の予測としての致死率はインフルエンザの倍程度のようである。
インフルエンザにかかったら「死ぬ」と思って恐れる人ならわかるが、インフルエンザを恐れないような人が新型コロナウイルスに感染すると「死ぬ」と思って恐れているなら、それは異常反応と言わざるを得ない。
個人差はあるため、必ず死なないとはいえないが、「入院患者に絶対うつさないようにする」という最優先事項はあっても、おびえることではない。

素人が抱えている疑問に答えよう。
感染すると死ぬ?
致死率は0.2%から0.1%と考えられている。中国で致死率3%を超えているのは医療崩壊したからだ。そのため、高齢者か若くても合併症で多くの人が亡くなった。全世界で見ると感染拡大を防げば医療崩壊は考えにくい。
治療法はない?
治療法は対症療法である。これは通常の風邪となんら変わらない。もともと風邪の特効薬は存在しない。同じく新型コロナウイルスにも特効薬はない。治った人間はすべて自分の免疫で快復している。
妊婦が感染すると胎児は死ぬ?
胎児にはうつらないと考えられている。妊婦が肺炎を起こすと重症化しやすいので注意が必要だ。
高齢者が重症化しやすいと聞いたけれど、子供は?
高齢者は感染しないように注意が必要だ。子供の重症化は報告されていないので、軽い症状で済むと考えられる。
中国から荷物が届くと感染するのでは?
ウイルスは物に付着してから数時間で死滅するので、触ってもうつらない。

基本的にはコロナウイルスとは風邪のウイルスの一種なので、風邪と思っていい。
風邪であっても、肺炎まで重症化すると、だれでも命の危険がある。
治るためには免疫でウイルスを死滅させるしかないから、抵抗力・免疫力を高めることがもっとも重要だ。
感染を予防しながら、感染したとしても肺炎にならないように、免疫力を高めておこう。
乳酸菌や納豆菌を積極的に取り、ビタミンA・ビタミンC・ビタミンEを健康時の必要量よりも多めに取ろう。
もし、症状が出たら、市販の風邪薬を服用して安静にしよう。ここまでは普通の風邪と同じ対応だ。
37.5度以上の発熱が4日以上続いたら、相談センターに問い合わせよう。
高齢者や持病がある人は、厚生省の目安に従い、37.5度以上の発熱が2日程度続いた場合でも、重症化を避けるために相談センターに問い合わせよう。

間違っても、過剰に騒いで医療機関を混乱させる行為だけは避けよう。
キーワードは「予防」と「免疫」である。感染者はだれか、どこにいるかではないのだ。

「~じゃん」は本当に神奈川方言か

私は北海道で生まれ育った。
幼少の頃に「~じゃん」という言葉遣いをしていたか記憶が定かではないが、現在は親しい間柄に限って日常的に使っている。それはプライベートの範囲を超え、職場での同僚とのやり取りでも使えたし、そこに違和感はなかった。

たまたま方言について調べていると、「~じゃん」は神奈川県の方言であると知った。確かに北海道方言といえば「~(っ)しょ」「~べ」「~だべ」「~だべさ」「~だべや」「~でや」が北海道らしい語尾であり、「~じゃん」は標準語の感覚で使っている。「~じゃん」を北海道方言だとは思わないが、標準語のつもりで使っていたのに、神奈川方言だといわれると「なぜ北海道でよく耳にし、漫画でもよく見かけるのか?」という疑問がわいた。
しかし、それから数十年がたっても、やはり「~じゃん」は神奈川方言だといわれ、ときどき調べても神奈川方言だとしかわからなかった。
私の解釈としては、テレビや映画、漫画などをきっかけにして若者が中心に使い、全国に定着したのだろうと推測していた。

一昨日、たまたま「~じゃん」起源について好奇心がよみがえり、今ならネットに新しい情報があるのではないかと考えて検索してみた。
「じゃん」は絹の道から?」(2014年12月11日付)に興味深い記載があった。
ニュースで報道されたそうだが、「~じゃん」が市民権を得た理由として『日本語ウォッチング』(井上史雄著、岩波新書刊)に詳しく書かれているという。
群馬の富岡製糸場が近代日本において重要な産業で、全国から工女が集まり働いていた。その工女たちが使っていた言葉だという。特に神奈川方言として定着したのは、貿易港があったからだとした。妙に説得力がある。「~じゃん」は静岡で古くから使われていて、貿易港がある横浜に伝わったのだろうとした。
このサイトでは『信州のことば』(馬瀬良雄著、信濃毎日新聞社刊)の説も紹介している。長野で使われる「~じゃん」は山梨甲府から由来だという。愛知三河で使われていた「~じゃん」も古いので、徳川家が東日本に広めたのではないかとも推察されているらしい。
これらの資料から、サイト執筆者は三河と長野を結ぶ三州街道と、長野と関東を結ぶ甲州街道の存在から、生糸の貿易ルートがあり、工女が広めたのだろうと結んでいる。

しっくりこない。霊感的にというか、インスピレーションとしては違うと思われた。
私はこの違和感を言葉に表してみようと試みた。三河と甲府と神奈川はそれぞれ違う起源の「~じゃん」を使い、全国で使われている「~じゃん」は「~じゃない」の「ない」が「ん」に変化したものと考えた。そもそも「~じゃない」の「じゃ」も「では」からの変化である。「~じゃない」も市民権を得たのか、そもそももともと標準語なのかは調べていないが、「ない」が「ん」に変化したとしても違和感がない。
つまり、各地の「~じゃん」は由来も用法も違い、全国的に定着した「~じゃん」は「~ではない」が「~じゃない」に変化し、さらに「~じゃん」に至ったもので、標準語が変化したものということである。

私はそれを裏付ける情報がないか、さらにネットで検索をかけた。そして、ついに見つけた。
方言「じゃん」の地域別の意味と使い方|愛知/静岡/山梨/九州/北海道」である。
このサイトでは各地の意味の違いを網羅している。私のインスピレーションどおりのアプローチだ。
三河弁では「~じゃん」の意味は「~(な)んだけどね」だという。静岡でも同じ意味であり、同じ由来だという。
甲州弁では「~じゃん」の意味は「~でしょう?」だという。
三河では「昨日すきやきだったんだ」といった過去のことで「昨日すきやきだったじゃんね」と使い、甲府では「明日お祭り行くよね?」といった未来のことで「明日お祭り行くじゃんね?」と使うのだ。
私が知っている「~じゃん」の意味とはぜんぜん違うのだ。

さて、肝心の神奈川方言ではどうかである。はたして、全国に普及した「~じゃん」と同じ意味なのだろうか。
神奈川方言としては、静岡や甲府から伝わった方言ではなく、相模、湘南、横浜あたりで古来使われてきた独自の方言だという。
神奈川方言では「~じゃん」は「~よね」となるらしい。全国で使われる意味にとても近い。
私は何事も慎重に取り組みたいたちなので、本当に神奈川の相模地方、湘南地方、横浜地方で使われていた古来の用法と、全国で使われている用法が同一なのかはとても気になる。

私の地元北海道では、全国に広まった「~じゃん」の意味とまったく同じ使い方である。テレビや映画、漫画などでの使われ方と同じなので、その影響であることはほぼ間違いない。
もし「今日は暑いよね」の意味で「今日は暑いじゃん」と使うなら、全国的に使う用法と微妙に違うように感じる。
全国で使われる場合の意味は「今日は暑いじゃん」は「なんだ、今日は暑いじゃないか」といったニュアンスを含んでいる。
「今日は暑いよね」も「なんだ、今日は暑いじゃないか」も同じ「今日は暑いじゃん」と表現される場合、それは微妙に意味が違い、違う由来の言葉だと推測することができる。
それをもって全国の「~じゃん」の由来は神奈川方言ではなく、「~ではない」からの変化であって、標準語が由来であるといえる。

これらの理由から、ふたつめに紹介したサイトでの結論についても納得できないし、言語学的に課題が残ると思われた。
古来の神奈川方言で「今日は暑いじゃん」に「なんだ、今日は暑いじゃないか」の意味があるのか、ぜひネイティブ・スピーカーのかたからお話を聞きたいものだ。

仏教の本を出版したく

2019(令和元)年11月11日に「さとり」を体験したので、仏教の本を出版しようと考えた。

仏教の本を書く前に、私自身の体感だけを書くよりは、一般的に認知されている従来の仏教についても書き、比較するほうがわかりやすいと思い、膨大な資料を集めているが、非常にわかりやすいサイトがあって、かつ、Yahoo!ブログがサービスを終了するとのことで、ネット上から全削除される前に、そのサイトの記事をEvernoteによって保存している。

そのサイトの記事数も多く、一つひとつ保存作業を繰り返すなかで、Evernoteによる取り込み方のあいまいさに辟易した。同じ操作をしているのに、無事に保存されていない記事があったり、なぜか記事が取り込まれずコメント欄だけが保存されたりと、惨憺たるあいまいさである。保存できたつもりでできていない記事があってはまずい。全体の保存をほぼ終えた段階で、また全記事を1件ずつ表示させ、失敗する表示か確認して再保存したり、Evernoteの画面から保存に失敗している記事を探して、再度保存し直したりしている。

コンピュータとは正確な動作しかしない印象だが、まるで人間のようなあいまいさがあると、二度手間、三度手間となり、コンピュータの意味がないような気がしてくる。

もし、Yahoo!ブログでお気に入りの記事があり、運営者が放置しているブログなら、できるだけ早くに保存することをお勧めする。ネット上から消えてしまえば、もう調べようがないからだ。

Page 1 of 19

Powered by WordPress & Theme by Anders Norén