「さとり」を語ること

今朝、日本テレビの情報番組「ZIP!」でイチローの引退会見と、スタジオでの解説者・長谷川滋利のお話を視聴した。
解説者はイチローの元チームメートらしく、アメリカでいっしょに食事をしたこともあるそうだ。
彼は言った。「イチローは天才と言われるけれど、天才ではなく普通の人間で、努力をした人。天才だと簡単に言われると本人も嫌がる」
なるほど、確かにイチローは内向的感覚型だ。努力で成し遂げた偉業だと思う。
天才と普通の人の違いは何かを考えた。
私がさとったとして、人々にそれを伝えることは困難だと実感している。
私も普通の人間、人々も普通の人間だ。
教えればいいではないか。
イチローのように努力できるかは、教わる側の問題である。
イチロー自身も言った。「コーチは絶対に無理だ」と。
そうだ。教える側の能力の問題ではないのだ。
教わる側が、どれだけ努力できるかだ。
私は智慧を開示していこうと考えた。
同じ人間として、さとりを語ってみようと思う。
ここまで書いてみて、先ほどの「天才と普通の人の違いは何かを考えた」の答えになっていないように思われたかもしれない。
言い換えれば、イチローは天才だったことになる。なぜなら、どう努力したらいいか、自分で考えたからだ。
たとえ、いいコーチに恵まれたとしても、すべての選手が必ず上達するとは限らない。
その意味で、教える側の問題ではなく、教わる側の問題だとしたのだ。
教わる側がどれだけ努力を続けられたかが、やはり天才といえるものだ。
「天才」=「努力せずとも上達できる能力」という先入観が混乱を来している。
「努力」=「継続できる力」とすれば、少しはご理解いただけるだろうか。
「努力」と「工夫」は別のチャンネルなのだ。
コメント
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コメント (2)
言うなれば
山中先生も間違いなく天才の域ですね。
もしかすると「天才」と分類される能力はなく、「努力を続けられるか否か」で「天才」が決まるとすれば、すべての人に「天才」の可能性があることになりませんか。
その意味では、私もほかの人と同じく「天才」とくくってもいいかもしれません。