「主体と客体の非二元性」

「私を認識している私」がいなくなったら、不安や恐怖心がなくなり、自然に前向きになり、よい大人、常識的な社会人、自分を生かす人生が実現される――といっても、にわかには信じがたいだろう。
そもそも「主体と客体の非二元性」とはどんな状態かを言葉で書いてみよう。

大笑いしているとき、「私は笑ってる!」とは誰も思わない。号泣しているとき、「私は号泣している!」とは誰も思わない。スポーツやゲームに夢中になっているとき、「私はゲームをしている!」とは誰も思わない。
当たり前のことだが、その状態が健全な状態であり、わざわざ「今、自分はこうだ」と認識する必要はないということなのだ。
「今、自分はこうだ」と認識して、メリットがあると思い込んでいることそのものに、本当にあなたはメリットがあっただろうか。

実際、メリットは何ひとつない。「自分はこの試合に勝たなきゃ!」と思えば思うほど集中できなくなる。「この試合に負けたらどうしよう……」と思えば思うほど集中できなくなる。
恋愛の告白やコミュニケーションも同じである。「ふられたらどうしよう……」と思えば思うほど不自然になる。「きっと交際してくれる」と思えば思うほど相手が不愉快に感じるものだ。
「そう思っていても、うまくいくときがあるじゃないか」という人もいるだろう。その場合、事前にはそう思っていても、いざ本番のときは無我夢中になり、「私が認識している私」が消えたからである。
問題は「私が認識している私」が消えずに「うまくいった自己像」や「失敗した自己像」をもち続けると必ず失敗するということだ。

ここでいう「主体と客体の非二元性」とは、「自分」を心の中からない状態にして、「相手」をなんとかしようとせずに、「自分」対「相手」という感覚を捨てて、行動・行為そのものに集中することである。そこに「自分」も「相手」も想定せず、行動・行為しか存在しないと体感することだ。
これを厳密には「主体と客体の非二元性」という。

あなたも体験があるだろうか。「仲間と爆笑したとき」「仲間と同じことに取り組んだとき」「仲間と号泣したとき」「パートナーと愛し合ったとき」――誰かと同じ気持ちになったときに感じる一体感、自分と相手が分離していない喜びや感動をあなたは知っているだろうか。それが「主体と客体の非二元性」である。分離していない、見る側(主体)と見られる側(客体)ではない一体感。それこそが非二元性なのだ。このときに一体となった人々は同じ気持ちになる。このとき、何を考えても通じ合える現象が起きる。

なぜその状態が感動を生むかを説明する。

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