Non-Duality Speaker , Early Buddhist Philosophy Teacher

仏教講座を受講

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Facebookで見かけた方が講師を務める仏教講座に、 仏道講師の私が申し込んだ。立場上、変な話だが初対面の方だったので、お会いする以上一度はお金を払って受講するのが礼儀だと思われた。

その仏教講座では、ゼロから学ぶものとしてあり、特に宗派などを明示していなかったので、私はその点を加味して参加したというのも本音である。公平で中立的な仏教講座を期待した。

ところが、実際にその講師と会ってみると、どうやら浄土真宗の僧侶が教師を育成し、全国各地で講座を開いているらしく、そのひとりと私は会ったという。公平どころか、思いっきり日本的で、鎌倉仏教の代表格である浄土真宗となると、国際的な仏教史観からみれば、かなり偏った部類に入る。失望とはいわないまでも、過大広告に感じられた。受講者のほとんどが浄土真宗の信者であろうと推測された。

受講してみると、大乗仏教の論法が展開された。文献も漢文の経典ばかりを引用する。時折、「ありがとう」の語源となった仏教説話が紹介されたり、仏教用語とは知られていない一般的な言葉が意外なものだったりして、おもしろい面もあったが、日本文化にとけ込んだ仏教を再確認できるとしても、私が知りたい仏教とはかけ離れたものであった。

これも縁であるならば、この際、私は日本人が考える仏教哲学や日本文化に浸透している仏教思想を学び直してみようと決意した。初心者向けの講座であるから、講座の内容からなにも得るものはないが、講師と話す機会があれば、立ち入った話ができるだろう。答えられない可能性もあるため、他の受講者がいないタイミングに聞く配慮は求められるだろう。決して、論破しようとか、やり込めようとか、そういったつもりはなく、私が長年抱えている仏教の矛盾の問題をどう処理して講師を務めているかを確認したいのだ。

講座ではことさらに「無明(むみょう)」が語られていた。「無明」とは「矛盾を後回しにして、問題解決しないまま、煩悩に溺れる」ことをいう。仏教の矛盾を後回しにして講師を続けることも、いわば「無明」そのものである。本人にそのつもりがないだけに皮肉な話である。

休憩時間中、講師に話しかけられたので、私は当たり障りなく浄土真宗の長所を話し、ライバル視される日蓮宗や密教の短所を指摘した。すると、おっしゃるとおりと喜ぶ表情を見せながらも、すぐに気まずそうな顔をされた。

3回は講座を受けたが、1回目と3回目は講座終了後の、希望者だけが同席できる夕食に私もついていった。講師は別の受講者のカウンセリングがあり、遅れて合流するとのことで、他の受講者といっしょに私は夕食をとった。あまり面識がないため、いろいろと質問していると、ひとりから真言密教を好んでいるという発言があった。常連の受講者たちは必ずしも浄土真宗の信者ではないようだ。講師が気まずそうな顔をした理由がわかった。

私はこの「無明」の原因が苦手である。なぜ、真言密教好きが浄土真宗の講座に来るのか。浄土真宗は天台密教から分かれた宗派である。真言密教と天台密教は対立し決別した宗派であって、その事情を知っていれば、まちがっても天台密教の分派から学ぼうとはしない。その無頓着さ、「無明」さに衝撃を受け、これが一般庶民いわゆる衆生の本音であると知った。このことからも、講師たちが過大広告をしていないことがわかる。衆生から見れば、仏教は大きなひとくくりにしていっしょなのである。どれから学んでもよいし、宗派にちがいがあるとは思っていないようだ。

受講者たちから、私がどんな仕事をしているか質問された。私の神通力(霊能力)は初対面ではドン引かれるため伏せておくことにした。私は嘘とはならないように、心理学講座の講師ということにした。仏教講座も始めたと付け加えた。そこで、ユング心理学の性格分析を披露した。即座に性格分析をして、長所短所を伝えた。次々と言い当てる私に受講者たちは目を丸くして驚いている。ただ、ひとりだけは頑なに否定した。そのくせ、私の話に興味津々のようすである。単に負けず嫌いのようだ。その性格のかわいくなさに驚いた。このデータはもっていなかったので、私はあれこれと質問するが、非常に迷惑そうな顔をする。それでも、私を毛嫌いしない。ややこしい。内向的感覚型はこうだったのかとのけぞるほど、意外だった。

ただ、他の集まりでは自慢し合う会話に辟易することが多かったが、なぜか不思議とこの集まりでは自慢し合う光景があまり見受けられなかった。講師は純粋に仏法を語ろうとしており、受講者も純粋に仏法を求めていた。キリスト教会の神父や牧師と集う信者のように、心がきれいで、自慢し合うような上冗漫な人はいなかった。

講師が合流したので、心理学の話をしながら、仏法の話もした。他の受講者が引かないように、そして、講師の顔をつぶさないように心掛け、礼儀を尽くした。講師から仏法に関する質問はないかと聞かれたので、「矛盾について質問したいが、時間が足りないので別の機会に」として濁した。それでも、かまわないふうに聞かれたので、まったく話さないのもまずいと思い、軽く例を挙げた。

仏教では、五十回忌まで法要があり、それをしなければ成仏しないというのに、成仏したら生まれ変わりをしないのであるから、それでも生まれ変わりがあるというのには矛盾がある。

講師は矛盾を認めたが、それ以上話そうとしないので、私は別の機会に話したいと改めて伝えた。そのほかにも気づいている矛盾はあるが、ぜひ質問できる機会があればとお願いした。すると、有料の通信講座を勧められた。私は悩んでいるのではない。研究で、講師たちはこの矛盾をほったらかしにしてどういうつもりなのかを問うたのだ。ちょっと話にならないなと思いながら、素人扱いされている嫌悪感も抱きつつ、他の受講者に配慮して、ここはそれ以上話を続けずに収めた。講師に強がられても、私は張り合うつもりで話しているのではない。真摯に仏教のないがしろにされている問題について、確認したいだけである。

所詮、講師も人間である。ご実家が寺とのことで、僧籍ももっていらっしゃるようだ。深いぶっちゃけた話はできないなとあきらめながらも、まあ、機会があればとだけ思うようにして、解散した。

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