Non-Duality Speaker , Early Buddhist Philosophy Teacher

合理機能が考える「自分」

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合理機能は、褒められることや尊敬されることを率先してやり、認められることで自己実現を目指す。
これは、非合理機能からすれば、他者からどう評価されるかを常に考え、他者に振り回されているように映る。なぜなら、他者から思い描かれている自分のイメージがよいものになることが自己実現であるから、それは他者由来であり、自分由来の目標がない。

この志向は、日ごろ繰り返される問題を生み出す。他者からよく見られる自分を目指すため、他者からどう評価されるかわからない初めての選択肢に向き合ったとき、合理機能は自分の判断で選択することができず、褒められる選択、あるいは、尊敬される選択を求めて周囲の人に聞いて回らなければならない。
そして、さらに困ったことに、周囲の人は必ずしも同じ答えを言わない。これでは、余計に迷ってしまう。
そんなときでも、褒められる自分、尊敬される自分を演じている彼らは、判断できない自分をさらけ出しながらも、褒められる自分、尊敬される自分を演じ続けようとする。選択さえ誤らなければ、判断に迷っているプロセスは、彼らにとって大きな問題ではない。

いよいよ選択を決断しなければならなくなると、もっとも尊敬を集めていそうな人間の意見に賛同したことにして、自分には非がない立ち位置を目指す。運悪く、よい意見に巡り合えなかったなら、自分では判断できずに迷い続けるか、選択肢の内容にクレームをつけて判断をキャンセルする。
いずれにしても合理機能の彼らは、みずからの選択の決断に責任を感じない。他者から褒められる選択、尊敬される選択をしているだけである。従っているだけの自分が責任を負わされることは、彼らにとって受け入れられないことなのだ。

非合理機能の者でも、発達心理学的に十分な社会性が育まれていないと、似たようなゴタゴタを起こす。ただ、明確に合理機能と違う点は、非合理機能には好みという衝動があり、褒められるか、尊敬されるかにかかわらず、合理機能が驚くほどあっさりと選択の決断をすることがある。ここでいう好みとは、自分がしたいことかどうかだけではなく、人に迷惑をかけたくないといったことも含まれる。
だからといって、非合理機能の彼らはまったく後悔しない選択を常にできるわけではない。好みを原因にしてわがままに思われたり、迷惑をかけたくないつもりが、逆に迷惑をかけてしまったということもありうる。
非合理機能の彼らが自分の選択によってトラブルが起きた場合、社会性が育まれていなければ、合理機能と似た選択方法のため、責任転嫁を図る。社会性が育まれているかいないかにかかわらず、自分の好みの衝動で選択した場合は、すべてを自分のせいと思い込む。この点が、合理機能と決定的に違う点である。

合理機能の人々から見ると、非合理機能の彼らが自分のせいだと簡単に認める姿は、心当たりがあり、その失敗を認めたように映る。実力がないのに引き受けた無責任さを感じる。愚かに見え、嘲笑の対象となる。
心理学的に分析すれば、合理機能の人々のほうが、心当たりがあり、失敗を認めざるをえない場面を繰り返しており、実力のなさを日々痛感していることを意味する。非合理機能の人々は、自分の非を認めて謝罪する側の人間性をある程度、評価するから、愚かには見えても、嘲笑の対象とはしない。
非合理機能の人々を心理学的に分析すれば、自分のせいだと認めることは誠実なことだからとして、誠実な人と思われる幻想、あるいは、正直さから築かれる信頼関係の幻想をもっている。正直者は馬鹿を見るということわざは、彼らのことをいうのだろう。

非合理機能の着目するべき点として、自分がありたい姿や、自分が目指す目標をもっている。これは自分由来である。
それと比べて合理機能では、他者から見てあるべき自分の姿や目標に依存するため、参考にする他者が複数であったり、意見がわかれていたりすると、言動やこだわりがコロコロと変わりやすく、一貫したものがない。

合理機能の人々の中にある「自分」とは、どこにあり、どのように存在しているのであろうか。

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