Non-Duality Speaker , Early Buddhist Philosophy Teacher

名文『みっともなくうろたえたい』

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昔、Tumblrでリブログしていた記事をたまたま読んだ。
なぜか心に残る名文だなあ、と思った文章を再びかみしめて読み、私の文章との違いは何か、気になった。

その名文とは「槙野さやか」さんの『みっともなくうろたえたい』である。

最近彼女ができまして、と彼は言った。私はおめでとうと言って拍手をした。
私は他人が誰かと親密になった話を聞くと高揚し、その人の肩をばんばんたたいて、「いいぞもっとやれ」と言いたくなる。祝福の気持ちにしては盛りあがりすぎなので、他人の私生活に関する話が好きなだけなんじゃないかと思う。下世話なのだ。
彼はでも、と付けたした。でも、この年になるとなんだかいろいろスムーズで、ちょっとかなしくもあるんですよ。
どういう意味でしょうと訊くと、彼は言う。
彼女とは仕事の関係で知りあったんですけど、すてきな人だなって思って、連絡先を渡すじゃないですか。で、メールを出したら感じのいいメールが返ってきて、何回かやりとりして、食事に誘う。桜の時期だったから、少し散歩して観たりする。また食事に誘う。「あなたと一緒にいると楽しい」という意味のことを伝えて反応をみる。嫌じゃなさそうだからもうちょっと踏みこんでみる。そういう手順に、もう慣れちゃってるんです。うまくいきそうだなっていうのもわかる。まあ、もう三十すぎてますしね、順当なことではあるんですけれども。
いいことじゃないですか、スムーズなのってすごく大切なことですよ、と私は言う。彼は曖昧に笑って何度かためらってから、ぽつりぽつりと続ける。
こんなにスムーズなのは、彼女のことを身も世もなく好きなわけじゃないからだと思うんです。なんていうか、僕も相手にとって、ただの適切な人材なんだと思うんです。いえ、それでいいんですよ、世の中の大半のカップルはそういうふうにしてくっつくんだし、僕だってそうでした。
私は目で彼に話のつづきをうながす。彼は自分が話しすぎることを気にして途中で切りあげるタイプだ。彼はまた少し間をあけて、それから滞留していた水が流れだすように語る。
以前は僕も相手も、少なくとも必死でした、一生懸命だったし、精一杯だった、どうしていいかわからない場面が多いから、しょっちゅう頓珍漢な真似をしていた。そんなだからこそ、自分たちのしていることに幻想を抱くことができたんです。なにか重大な、美しい事件が起きているように思えました。でも今はそうじゃない、僕らはいろんなことが上手になってしまった、あなたはそれをいいことだって言う、でも僕はそうは思わない、正しい手順で要領よくものごとをすすめるなんてさびしいことです。
運命の恋みたいじゃないのがさびしいんですかと私は訊く。彼は首を横に振る。いいえ、僕はそんなものはないと思います。そうじゃなくて、年をとってみっともなくうろたえなくなったのがさびしいんです。僕はいつもはじめてのように、それをしたいのに。

心に沁みる単語が少しずつ、そして、後半に向けて盛り上がるように散りばめられている。
初めは表面的なやり取りからなにげない会話のように展開する。それをいったん破壊するように、「彼」の本音の吐露によって共感や暴露がスパイスのように描かれ、「私」は対抗するかのように破壊への予定調和的な肯定を投げかける。
「彼」はひるまない。「身も世もなく好き」なわけじゃないという表現がカウンターパンチのごとく、予定調和的な肯定をあっさりと打ち砕く。「身も世もなく好き」という美しい言葉を「なわけじゃない」と打ち消してしまうところが、「彼」のもの悲しさを感じさせる。
「彼」は「頓珍漢な真似」「幻想」という切り捨てるような言葉を使いながら、「なにか重大な、美しい事件が起きているように思えました」と美しい表現で、懐古するように訴える。
「彼」が抱く憧憬を失う原因になったのは、失敗しないように努力した自分自身が成長し、上手になり、要領よくなってしまったことにあるという。
そして、最後に美しい言葉で締める。「僕はいつもはじめてのように、それをしたいのに」と。

会話がメインの文章だが、地の文のなかにほとんどの会話が含まれていて、ほぼカギカッコがない。
たった2か所だけ、わざとカギカッコが使われているが、それは二人の会話ではなく、「言いたくなる」ことか、または「第三者に伝えた」こととしている。カギカッコは一見、強調のようにも見えるが、槙野さやかさんは「二人のあいだの会話ではない」という意味合いで使っている。

カギカッコがなく、漢字を多く開き、平仮名の羅列が延々と続くようにも見えるが、決して読みづらいわけではない。「である調」と「ですます調」の混在も違和感なく読むことができ、地の文と会話文をそれで分けていることが見て取れる。

ピカソは、絵画の技術が秀でているからこそ、一見、目茶苦茶な作品でも評価された。この文章も編集としては目茶苦茶なルールに見えるが、作文技術をもっているからこそ、「二人のあいだの会話ではない」表現と、会話文としての表現を解説なしに読み手にそれとなく気づかせ、自然に読ませている。あまりの違和感のなさに、まるで一般的な編集のルールを守っているかのようだ。

その独特のルールのおかげで、「私」が読み手に向かって、自分の体験として伝えたいことを臨場感のある表現に仕上げている。「こんなことを言うやつがいたんだよ。なんか気になってさ」くらいの生々しさである。

この計算され尽くした文章には感嘆した。名文である。これだけの表現力を私も遊ぶように使いこなしたいと思った。
蛇足ながら、私も「みっともなくうろたえたい」と共感したというわけではない。「気持ちが伝わる文章だ」という喜びである。ブログではさまざまなかたが読まれるので、こういった誤解は多いので付け加えておく。

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