Non-Duality Speaker , Early Buddhist Philosophy Teacher

投稿者: 山中 聡和 Page 1 of 19

自殺する人としない人の違い

三浦春馬さんの自殺は世間を驚かせた。

真相は断定できず不明とされているが、原因の一つとされる「ネット上の誹謗中傷」は、近い時期に同じく自殺した女子プロレスラー木村花さんと同じ理由となることから、わたしは「ネット上の誹謗中傷で自殺する人としない人の違いは何だろうか」と気になった。

自殺をした有名人の遺書や親しい人の証言から「自分の求めているものや目指しているものと、現実での自分の在り方が食い違い、耐え切れなくなった」というものが多い。

自殺をしない人でも、その自殺理由に共感する者はいるだろうが、まったく共感できないどころか、同じ理由では自殺の発想をしないという者さえいる。恐らく、自殺をしない人と言い切れる人々だといえるだろう。

では、自殺を予防する可能性を模索するうえで、自殺をしない人の考え方が参考になるのではないかと思うのだが、そのような風潮は見受けられない。

それは「共感できる人」を「人の心が分かる人」と解釈する傾向が少なからず社会の中にあり、自殺しない人たちは自殺する人に共感できなくても「人の心が分からない人」と言われてしまうことを避けて口をつぐむか、共感しているふりをしている可能性があるように思う。

結果として、別の理由で共感できない人が「一人の人間を自殺まで追い込む」事態は起きても、自殺してしまってからは「自殺に関してネガティブな発言はしない」という選択肢を選び、自分のふるまいを切り替えてしまって、自殺前と自殺後では場の空気の連続性が断たれてしまう。

これが自殺の真相をややこしくし、本人の思考と現実とのずれを感じさせ、解明を不可能にさせているように思われる。

「ネット上の誹謗中傷」を原因としない自殺のケースでは、闘病苦や借金苦、反社会勢力とのトラブル、うつ病などが考えられるが、「ネット上の誹謗中傷」が原因でうつ病になり自殺を選ぶことはあっても、「ネット上の誹謗中傷」と比べて闘病苦、借金苦、反社会勢力とのトラブルなどは明確な絶望を感じてしまうことは想像に難くない。

反対にいえば「ネット上の誹謗中傷」で明確な絶望があるとすれば、仕事に悪影響が出て、収入が激減したり、将来に不安を感じたりした場合に限る。

三浦春馬さんの自殺理由を理解しづらくさせているのは、正にこの部分なのである。仕事は順調であったし、周囲の人間からは心配する声はあっても、おおごとだとは思っていなかった。木村花さんもテレビの演出に屈服することなく闘えば、木村花さんを応援する者は多かったことだろう。

従って、三浦春馬さんにしても木村花さんにしてもうつ症状があったことは否めない。

さて、では自殺しない人がなぜうつ病にならないのかが重要となる。

「自分の求めているものや目指しているものと、現実での自分の在り方が食い違い、耐え切れなくなった」という聞き慣れた文言は、十分にうつ病の原因になるのかもしれない。

ならば、うつ病にならない人々は「自分の求めているものや目指しているものと、現実での自分の在り方が食い違い、耐え切れなくなった」という発想をしないということになる。

「自分の求めているもの」「自分が目指しているもの」と「現実での自分の在り方」が食い違うと、どのような苦痛が立ち現れるのだろうか。

この考察は、次回、掘り下げる。

心に響く歌

深夜のテレビ番組でMVが流れていた。
自我があった頃が懐かしく感じられる歌だった。

サイコパスという存在を受け入れてから

脳科学者中野信子さんの書籍で「サイコパス」を詳しく知ることができ、人々が思っている以上に多くいることを受け入れてから、自分でも驚くほどの心境の変化があった。

「サイコパス」を理解するまでは、人間の「悪意」を心理学的にどう解釈したらいいのかがわからなかった。この世で生きていくうえで、何をするか分からない「悪人」を正しくかぎ分けて避けることはほぼ不可能だからだ。

予測できない恐怖におびえながら、心理学という蓄積された英知を通して「悪意」を知ろうとした。そうしているうちにも、「悪意ある店員」や「悪意ある顧客」、ネット上の「悪意ある書き込み」などと遭遇する。これは、わたしだけの体験ではないはずだ。

そんな生まれてから年齢分の経験から裏打ちされた世界観を、簡単に崩壊させてくれる情報に出合う。数年前に「発達障害者は少なく見積もっても10人に1人、多く見積もれば5人に1人はいる」と知った驚きのように、中野信子さんの書籍で「サイコパスは理論的には20人に1人はいる」と知って、想像以上に身近であることに納得したのだ。20人に1人と理論的にいえるならば、境目(ボーダー)も含めれば10人に1人はいる計算と見てよい。

確かに今までの人生を振り返ってみれば、公立の中学校のような人為的偏りがない、さまざまな学力の生徒がいる環境で、非行少年と呼ばれていた一部の生徒の割合はサイコパスの比率と一致する。

彼らの特徴は「自分自身が危機に陥るという恐怖心を感じにくい脳」だそうだ。しかられるという恐怖心も、懲罰を受けるという恐怖心も、暴力を受けるという恐怖心も、後で自分が損するかもしれないという恐怖心さえも鈍いという。

とはいえ、サイコパスではない人々と同じような比率でIQ分布があり、低IQのサイコパスもいれば、高IQのサイコパスもいるという。
従って、低IQのサイコパスはチンピラのようになるが、高IQのサイコパスは薄情なインテリのようになる。

そして、これが脳の問題だけに、極端なサイコパスだけでなく、少しだけサイコパスという者もいるというのである。

もっと言えば、子供はサイコパスからスタートし、大人になるにつれてサイコパス度が下がるのだが、自我の成長も加味すると、思春期がもっともサイコパス度が高い時期だという。

わたしは男であるので、男だけに限った残念な情報もあった。
男は性的興奮が高まると、性的対象に対し、サイコパスっぽい脳に変化するという。

思春期といい、男の性的興奮といい、実はだれにとってもサイコパス症状は身近なものだったのだ。

男女問わず、思春期の恋のもつれはサイコパス症状だったのである。
男性に限り、変態的な性的嗜好もサイコパス症状だったのである。

少しややこしくなってきたので、ここで整理しよう。
まず脳科学的に20人に1人の割合で「ずっとサイコパス症状」のサイコパスがいるということ。わたしはこれを実情で考えれば10人に1人の割合と見ている。
次に、サイコパスではない普通の人でも「思春期サイコパス症状」と「性的嗜好サイコパス症状」は発症するということ。

「ずっとサイコパス症状」のサイコパスを見分ける方法は、「デスクワークが苦手」「チームワークが苦手」「恐怖心がない」「饒舌」「性欲が強い」の5つであると脳科学で解明された。

世間一般でいわれている「サイコパス」=「凶悪犯罪者」というのは必ずしも当てはまらず、生育環境によって決まる。

そもそも、弁護士や医師などはサイコパス度が少しでもないと務まらないという。

これらのことを理解し受け入れてから、「悪意」というものが把握できるようになった。「悪人」を正しく察知し、当人なりの保身によるものだということも理解できる。わたしにとって、予測できないものではないと理解できたことは、自分でも驚くほど自分自身に平穏を与えてくれた。

すると、まるでブロックが外れたように、歴史上の人類の恐ろしい悪事の真実を知る体験が増えた。サイコパスを受け入れる前のわたしでは、到底受け入れられなかったであろう残酷さであった。

その一つが「従軍慰安婦」のために存在する韓国の団体が、従軍慰安婦への日本人からの寄付金を従軍慰安婦だった女性たちに渡さずに、運営者が使い込んでいた問題である。女性の性を食い物にした日本帝国軍の従軍慰安婦制度にも嫌気がさすが、従軍慰安婦制度に関する日本人の罪悪感さえも食い物にした韓国の団体の運営者にも吐き気が催した。

さらに、もう一つ吐き気が催した歴史的事実があった。
終戦直後、満州にソ連軍が侵入したが、民間人の命が脅かされ、ソ連軍と民間人との間で取引された。命と引き換えに若い日本人女性が集団レイプの犠牲となった。それだけでも恐ろしい事実である。
そこへ、新たな事実が追加された。そもそも満州に住んでいた日本人女性は、就職のつもりで満州へ渡り、実は無理やり嫁にされた女性だったという。日本人女性たちに「嫁にするため」という大義名分が先で、就職して自立するという触れ込みはうそだった。途中で「強制的に嫁にされる」と知った女性たちは逃げ出す者もいれば、半ばあきらめて渡航した者もあったという。実際、満州へ渡ってしまうと、だれかと結婚しなければ生きていけない。妥協して結婚し体を許した。
終戦を迎えると今度は言葉の通じない白人に乱暴にされて数十人にレイプされるのである。数百人だったかもしれないが、それは調べようがない。
この事実で吐き気を催したのはもっと先に進んだ場面であった。
彼女らはレイプに耐えられず自殺するか、性病で死ぬか、妊娠で死ぬか、生きて耐えた。必ずだれかがレイプ被害に遭わないと、村の人々の命が奪われてしまう。正にいけにえ状態であったが、多くの女性が命を落とし、耐え抜いた女性はソ連軍が撤退した後、生活のために中国人と結婚した。敗戦した日本は引き揚げ船をなかなか用意できなかったからだ。
わたしが読んだ事例では、その女性は中国人と結婚した後、日本の引き揚げ船に乗るチャンスに恵まれ、中国人の夫を説得し、日本に帰れたという。無事に長崎に到着し、そこで待っていたのは「妊娠チェック」と「堕胎」であった。日本政府は「日本人の純血を守るべき」とし、彼女らに無理やり堕胎させたのだった。そして、その公式記録は抹消された。ただ、不可解な多くの手術の件数だけが記録に残っている。
わたしは吐き気を催した。

サイコパス云々の前に、社会的差別のほうが恐ろしい。
サイコパスを受け入れると、人間の悪事を直視できるようになったのはいいが、想像以上に人間は残酷であるという事実が浮かび上がる。

団体や社会を相手にするよりも、一人一人誠実に向き合ったほうが平和を実現できるような気がする。
いや、それこそが真実なのであろう。
集団心理の滑稽さは新型コロナウイルス・パンデミックでも露呈したとおりである。

断じて、集団心理こそ人間の本性なのではない。一人一人向き合ってこそ、人間の本性に触れられるということなのである。
これだけは、間違えてはならないとわたしは理解した。

未曾有のパンデミックに見る違和感の正体

これは人類の本質なのかもしれない。いや、もしかすると、これこそが人類を構造主義的に解釈する鍵なのではないか。
連日の報道では新型コロナウイルスによって「危機感が高まる情報」と「沈静化を促す情報」が入り乱れて、恐怖と安心とが繰り返し繰り返し伝えられる。
これに対し、世間では「過剰に反応し、警戒する人々」と「安易に考え、平常時と変わらない人々」に分かれた。
すると、報道は過熱する。「過剰に反応し、警戒する人々」に向かって「沈静化を促す情報」を流し、「安易に考え、平常時と変わらない人々」には「危機感が高まる情報」を送るのだ。
問題は、これら真逆の情報が同一のメディア、同一の発信者から一般の一人一人に向けて無差別に繰り返し繰り返し伝えられていることなのである。一般人各自はどちらの情報も自分へ向けてのメッセージに解釈してしまうのだ。
もはや、危機なのか、安全なのか、メッセージの趣旨がつかめなくなる。

どうやら、私たちの脳は、このように真逆の意味が入り交じった情報に遭遇すると理解できないばかりか、ストレスに感じて不可解な行動に出るようである。
その最たるものが「デマに翻弄される人々」や「買い込み」「差別」である。マスク不足を防ぐためのマスク転売禁止によって、手作りマスクの販売までも禁止する事態も含まれるかもしれない。

私はこの違和感について早くから興味を抱いていたが、そもそもの新型コロナウイルスの情報の解釈に苦悩した。新型ウイルスであるがゆえに科学的解明が遅れているが、それは発信者にとっては「警告し過ぎてもだめ」「安心させ過ぎてもだめ」というジレンマに陥ざるを得ないものである。そんなジレンマが解消されないまま報道では発信し続けなければならないのであるから、解釈の苦悩は当然だ。
そこで、私は安易に新情報さえそろえば、この苦悩から解放されると考えた。ジレンマさえなくなれば、一般の人々の混乱はなくなると思えたのだ。
私は早速、有効活用が可能なレベルに達した新情報を集めて「コロナ・パンデミック?」を書いた。2020年2月20日付である。

1月から注目され、2月から騒動が起き、3月には全世界でパニックを起こしている新型コロナウイルスについて3月25日現在、報道の努力によって新情報がほぼ出そろい、今の私がわざわざ発信せずとも周知の事実になったものと思われるのだが、私の分析に反して一般の人々の混乱は増しているように見える。
私が抱いた違和感は世間では解消されていないのだ。私自身が感じていた違和感は「コロナ・パンデミック?」の記事でまとめることによって解消されている。世間に蔓延している混乱は、私自身が感じていた違和感とはそもそもの原因が違うようだ。

数か月前から、平均IQの人々の思考パターンを理解するために認知バイアスを調べていた。そのほか、脳科学関連書籍にも目を通していた。
世間の人々が未曾有のパンデミックに遭遇して、認知的不協和に苦しんだり、正常性バイアスによって危機感が薄らいだりすることは理解できる。
そのため、認知的不協和と正常性バイアスを解決するための情報整理を「コロナ・パンデミック?」にて自分なりに実現したわけだが、今回の文章を書くにあたり、もうひとつの理論、二重拘束(ダブルバインド)を思い出した。
調べてみると、一般の人々の不可解な行動は、ダブルバインド・セオリーにおける被害者の症状と一致しているように見える。症状とは以下の3つである。

  • 言葉に表されていない意味にばかり偏執する(妄想型)
  • 言葉の文字通りの意味にしか反応しなくなる(破瓜型:はかがた)
  • コミュニケーションそのものから逃避する(緊張型)

引用:ダブルバインド – Wikipedia

妄想型は「たいしたことない」「自分の周囲には感染者はいない」「マスクの生産によって紙が不足し、トイレットペーパーが足りなくなる」などである。
破瓜型は「感染したら死ぬ」「出歩けない」「風邪の症状が出たらすぐに相談センターや医療機関に相談する」「デマを信じる」などである。
緊張型は「感染を恐れて仕事を退職する」「外出を一切しない」「マスクをせずに咳をしている人がいたら感染者の可能性があるので排除する」などである。
二重拘束は二重規範(ダブルスタンダード)のように区別がつきづらい可能性があり、多くの者が自覚せずにこの症状で正気を失っていると思われる。

この症状を自覚できない脳は、メッセージとメタメッセージが矛盾するコミュニケーション状況におかれると、認知的不協和にさらされて、矛盾を解決できない場合にこの症状に見舞われるのだろう。
新型コロナウイルスの例に照らすと、報道による危機的メッセージと、あまり感染者がいないように見える日常のメタメッセージとの矛盾が解決できないと、「買い込み」「差別」「デマに翻弄される」という事態に陥るということである。
反対に「買い込み」「差別」「デマに翻弄される」といったことがない人々は、自らのIQによって矛盾を解消し、ダブルバインドに陥っていないということになる。
「買い込み」「差別」「デマ」が社会現象になっていることから、平均IQではこの矛盾を解消できないということなのだろう。
これでは個人主義を貫き、自己責任に任せると全世界が無法地帯と化す。それがこのたびのパンデミックの世界の実情だということである。

その解決方法はないのであろうか。
方法を見つけることは簡単である。矛盾を自力で解消できない人々に向けて、矛盾を解消した考え方を提供すればいいのである。
報道は事実を伝えることが主目的であるが、事実のみを提供して、判断は各自に任せるとしてしまうと、必ずしも正しい理解には到達しない。というか、絶対に到達できない。
それよりも専門家の見解を明確にして、出た結論のみを伝えることのほうが、社会的混乱を防ぐことができる。ここまで来ると報道の範疇を超えるため、政治家が引き受け、報道は仲介のみにするのが相当だろう。

さまざま報道される世界の実情から、もっとも印象的だったニュースがあった。「『買い占めはやめて!』48時間勤務の看護師、食べ物を確保できず涙の訴え – BBCニュース」である。

新型コロナウイルスの感染拡大を受け、多くの国で買い占めが起きている。
こうした中、1人の疲弊した看護師が、買い占める人々に対し、ほかの人のことを考えるよう涙ながらに訴えた。
イギリス・ヨーク在住のドーン・ビルバラさんは、救命救急の看護師として働いている。
48時間勤務を終えて立ち寄ったスーパーマーケットの棚には、野菜や果物は残っていなかったという。
ビルバラさんは、人々が具合が悪くなった時に治療に当たるのは、自分のような英国民保健サービス(NHS)のスタッフであり、任務を遂行するには健康を維持する必要があると説明。買い占めをやめるよう求めた。

これは一個人が世間の一人一人に訴えてどうにかなるものではない。有志が集まり組織的に解決するか、先ほどの私の提言のように国や自治体が医療従事者を保護するべき問題である。
人類は各自の判断によって社会を動かすことができない。二重拘束に至ると妄想型、破瓜型、緊張型の3パターンに分かれる。正確に言えば二重拘束に陥らなかった高IQの人々も含めて4パターンになるだろう。
高IQの者が革命家となり、最良の方法を実現するため、平均IQの人々を扇動し、社会の構造を変えていく努力をしなければ、社会は崩壊に向かう。
さあ、あなたはダブルバインド・セオリーでいう被害者であろうか。それとも、ダブルバインドに陥らない革命家であろうか。
あなたはどちらでありたいだろうか。

日本文化特有の霊性に取り込まれた仏教

日本仏教を調べるために、まず根本のインド仏教や釈迦自身を史実から調べていたが、日本仏教とインド仏教はこんなにも違うのかと知るだけでは足りないのだと、昨日知った。

お恥ずかしい話だが、日本人の宗教観は土着の信仰である神道と、伝来後主流となった仏教を知ればいいと思い込んでいたのだが、神仏習合によって神道と仏教が入り交じった信仰はまったく別の進化を遂げていたことを今になって知ったのである。

そのきっかけは、釈迦のさとりを解説する本を執筆していた際に、日本人が抱いているあの世のイメージが必ずしも仏教の教義と一致しないことに気づいたからである。

変なのである。日本人が抱いているあの世のイメージは、本来の仏教の教えとは全然違うのだ。

仏教では教えていないことなら、神道の教えかというと、神道にはもともと教義がないのだから、それもあり得ないのである。

たまたま持っていた本で、購入当時は今以上に頭が固かった私は迷信めいたものを読み飛ばしていたため記憶に残っていなかったのだが、処分する前に目を通してみたら、肝心の神仏習合によってはぐくまれた純日本的な霊的文化が掲載されていたのである。

仏教の書籍では当然のことのように「日本は祖霊崇拝の文化」だと書かれているが、それは「日本人が抱くあの世のイメージ」を日本人なら知っているだろうとしてわざわざ書かずに、かつ、仏教関連書籍として仏教以外のことにページを割けないということで、暗黙の了解とされてしまっていた。

北海道育ちで、実家が新興宗教の信者であったから、むしろそういった昔ながらの祈祷やおまじないのような迷信めいたものには縁がなかった。新興宗教を信仰しないと宣言した私は、これ以上に独特の信仰が日本文化に根付いているとは想像もしなかった。

仏教では「さとりを開き、来世(転生後の人生ではなく、あの世)で転生せず苦しまない存在になる」ことを目指す。

日本仏教が定着しているはずの日本人はそのようには考えない。
日本仏教の僧侶は言う。「他界してから、出家したことにするために、戒名(出家してから、もらう名前)をつけて、法事でお経を故人に聞かせることでさとりに導き、追善供養の五十回忌の弔い上げをもって成仏(さとりを開いた)と考える」と。
ところが、日本人の多くは仏教の教えを詳しくは知らない。そもそも、さとりを開きたいと思っているわけでもない。浮かばれないでさまよっている霊にはなってほしくないから法事を頼んでいるふしがある。
では、浮かばれたらどうなるかというと、さとりを開きたいと望んでいない一般人は、浮かばれることで天国に上がれると思っているようだ。天国に上がれば、過去に亡くなった家族と再会できると考える。
葬儀や追善供養で天国に上がれると思っているが、葬儀で直ちに上がれると考える人もいれば、四十九日法要で、あるいは、一周忌で上がれると思っている人もいる。三回忌、七回忌、十三回忌がなぜ必要かは考えない。
「成仏=天国に上がること」なのである。天国に上がっていないので上がるために追善供養をするのか、天国に上がってからも追善供養をしたほうがいいと何となく思ってするのかは人それぞれだ。

仏教で基本的な教えである生まれ変わりについては、僧侶も一般人も触れない。とにかく、浮かばれること、さとりとは無関係な成仏を実現すること、天国に上がることを目指す。

こういった日本人特有のあの世のイメージを本の執筆中に気づき、気にかけていた。
そこへ、昨日、目を通した処分予定の本に、神仏習合によって古来日本文化の中で発展してきた日本特有の霊性が掲載されていて、仏教ではない、なぞの信仰心の正体がわかったのである。

日本特有の霊性とは、神道と仏教が融合した、山岳信仰が中心に据えられている修験道である。仏教伝来する前は、中国大陸の道教が神道に取り込まれ、山岳信仰を形成した。そこへ、仏教が加えられて修験道として完成したのだ。
神仏習合では神官と僧侶の区別がなく、日本仏教といわれながらも、インド仏教や中国仏教と比べればまったく別物といっていい宗教と化していた。祝詞とお経と真言を使いこなし、陰陽道のように式神を操り、神の使いである眷属を操るのだ。

もはや「帝都物語」……、いや、今風にいうなら「鬼滅の刃」である……。

釈迦の教えはどこへやら、である。修験道の修行者は祝詞やお経、真言を呪文として使いこなして願いをかなえる。釈迦と対立したといわれるバラモン教(ブラフマン教)の祭司が明呪を唱えて願いをかなえることとまったく同じことをしているのである。
人間の根本的なところは同じなのだと痛感させられる。

どおりで、日本中のあちらこちらにキツネの霊だの、ヘビの霊だのがいっぱいいるわけだ。日本仏教にはしっかりと、一般人がかかえるイメージを払拭し、仏教の教義を広めていただきたいものだ。断じて仏教とキツネやヘビは一切関係がない。仏教では眷属というものが存在しないのだ。このままでは日本仏教というよりは、日本教である。眷属使いが祭司となって信者を集める宗教である。日本特有で、日本文化として完成されているのだ。僧侶は修験道の修行者ではないのだから、はっきりしていただきたいものだ。

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