Non-Duality Speaker , Early Buddhist Philosophy Teacher

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日本文化特有の霊性に取り込まれた仏教

日本仏教を調べるために、まず根本のインド仏教や釈迦自身を史実から調べていたが、日本仏教とインド仏教はこんなにも違うのかと知るだけでは足りないのだと、昨日知った。

お恥ずかしい話だが、日本人の宗教観は土着の信仰である神道と、伝来後主流となった仏教を知ればいいと思い込んでいたのだが、神仏習合によって神道と仏教が入り交じった信仰はまったく別の進化を遂げていたことを今になって知ったのである。

そのきっかけは、釈迦のさとりを解説する本を執筆していた際に、日本人が抱いているあの世のイメージが必ずしも仏教の教義と一致しないことに気づいたからである。

変なのである。日本人が抱いているあの世のイメージは、本来の仏教の教えとは全然違うのだ。

仏教では教えていないことなら、神道の教えかというと、神道にはもともと教義がないのだから、それもあり得ないのである。

たまたま持っていた本で、購入当時は今以上に頭が固かった私は迷信めいたものを読み飛ばしていたため記憶に残っていなかったのだが、処分する前に目を通してみたら、肝心の神仏習合によってはぐくまれた純日本的な霊的文化が掲載されていたのである。

仏教の書籍では当然のことのように「日本は祖霊崇拝の文化」だと書かれているが、それは「日本人が抱くあの世のイメージ」を日本人なら知っているだろうとしてわざわざ書かずに、かつ、仏教関連書籍として仏教以外のことにページを割けないということで、暗黙の了解とされてしまっていた。

北海道育ちで、実家が新興宗教の信者であったから、むしろそういった昔ながらの祈祷やおまじないのような迷信めいたものには縁がなかった。新興宗教を信仰しないと宣言した私は、これ以上に独特の信仰が日本文化に根付いているとは想像もしなかった。

仏教では「さとりを開き、来世(転生後の人生ではなく、あの世)で転生せず苦しまない存在になる」ことを目指す。

日本仏教が定着しているはずの日本人はそのようには考えない。
日本仏教の僧侶は言う。「他界してから、出家したことにするために、戒名(出家してから、もらう名前)をつけて、法事でお経を故人に聞かせることでさとりに導き、追善供養の五十回忌の弔い上げをもって成仏(さとりを開いた)と考える」と。
ところが、日本人の多くは仏教の教えを詳しくは知らない。そもそも、さとりを開きたいと思っているわけでもない。浮かばれないでさまよっている霊にはなってほしくないから法事を頼んでいるふしがある。
では、浮かばれたらどうなるかというと、さとりを開きたいと望んでいない一般人は、浮かばれることで天国に上がれると思っているようだ。天国に上がれば、過去に亡くなった家族と再会できると考える。
葬儀や追善供養で天国に上がれると思っているが、葬儀で直ちに上がれると考える人もいれば、四十九日法要で、あるいは、一周忌で上がれると思っている人もいる。三回忌、七回忌、十三回忌がなぜ必要かは考えない。
「成仏=天国に上がること」なのである。天国に上がっていないので上がるために追善供養をするのか、天国に上がってからも追善供養をしたほうがいいと何となく思ってするのかは人それぞれだ。

仏教で基本的な教えである生まれ変わりについては、僧侶も一般人も触れない。とにかく、浮かばれること、さとりとは無関係な成仏を実現すること、天国に上がることを目指す。

こういった日本人特有のあの世のイメージを本の執筆中に気づき、気にかけていた。
そこへ、昨日、目を通した処分予定の本に、神仏習合によって古来日本文化の中で発展してきた日本特有の霊性が掲載されていて、仏教ではない、なぞの信仰心の正体がわかったのである。

日本特有の霊性とは、神道と仏教が融合した、山岳信仰が中心に据えられている修験道である。仏教伝来する前は、中国大陸の道教が神道に取り込まれ、山岳信仰を形成した。そこへ、仏教が加えられて修験道として完成したのだ。
神仏習合では神官と僧侶の区別がなく、日本仏教といわれながらも、インド仏教や中国仏教と比べればまったく別物といっていい宗教と化していた。祝詞とお経と真言を使いこなし、陰陽道のように式神を操り、神の使いである眷属を操るのだ。

もはや「帝都物語」……、いや、今風にいうなら「鬼滅の刃」である……。

釈迦の教えはどこへやら、である。修験道の修行者は祝詞やお経、真言を呪文として使いこなして願いをかなえる。釈迦と対立したといわれるバラモン教(ブラフマン教)の祭司が明呪を唱えて願いをかなえることとまったく同じことをしているのである。
人間の根本的なところは同じなのだと痛感させられる。

どおりで、日本中のあちらこちらにキツネの霊だの、ヘビの霊だのがいっぱいいるわけだ。日本仏教にはしっかりと、一般人がかかえるイメージを払拭し、仏教の教義を広めていただきたいものだ。断じて仏教とキツネやヘビは一切関係がない。仏教では眷属というものが存在しないのだ。このままでは日本仏教というよりは、日本教である。眷属使いが祭司となって信者を集める宗教である。日本特有で、日本文化として完成されているのだ。僧侶は修験道の修行者ではないのだから、はっきりしていただきたいものだ。

仏教の本を出版したく

2019(令和元)年11月11日に「さとり」を体験したので、仏教の本を出版しようと考えた。

仏教の本を書く前に、私自身の体感だけを書くよりは、一般的に認知されている従来の仏教についても書き、比較するほうがわかりやすいと思い、膨大な資料を集めているが、非常にわかりやすいサイトがあって、かつ、Yahoo!ブログがサービスを終了するとのことで、ネット上から全削除される前に、そのサイトの記事をEvernoteによって保存している。

そのサイトの記事数も多く、一つひとつ保存作業を繰り返すなかで、Evernoteによる取り込み方のあいまいさに辟易した。同じ操作をしているのに、無事に保存されていない記事があったり、なぜか記事が取り込まれずコメント欄だけが保存されたりと、惨憺たるあいまいさである。保存できたつもりでできていない記事があってはまずい。全体の保存をほぼ終えた段階で、また全記事を1件ずつ表示させ、失敗する表示か確認して再保存したり、Evernoteの画面から保存に失敗している記事を探して、再度保存し直したりしている。

コンピュータとは正確な動作しかしない印象だが、まるで人間のようなあいまいさがあると、二度手間、三度手間となり、コンピュータの意味がないような気がしてくる。

もし、Yahoo!ブログでお気に入りの記事があり、運営者が放置しているブログなら、できるだけ早くに保存することをお勧めする。ネット上から消えてしまえば、もう調べようがないからだ。

The dynamics of the ego.

「最高の調味料は空腹」「最良の枕は睡眠不足」といった揶揄はよくいわれる。

若者は束縛されると自由を望み、結婚を反対されるとますます燃え上がる。

ブッダが「さとり」を語るとき、そんなつまらないことを言いたいわけではない。

すべての幸福、すべての目標、すべての希望がそういうものだと気づくこと、それを「さとり」と言った。

例えば、就職し、結婚し、家庭を築いて、子育てしたり、親孝行したりすることは、幸福の最たる理想形である。

それを幸福と信じた者は、失業すると路頭に迷う。離婚すれば絶望し、家族との離ればなれになる環境は苦しみを伴う。

そのため、失業や転職は避け、離婚は回避し、家族との関係を大切なものとする。

それを幸福と信じた者は、独身の者を憐れみ、離婚する者を軽蔑し、家族と離ればなれになった者を訝しがる。

なにか問題があって幸福になれないのではないかとさえ疑う。

実は問題がないと自覚している本人でさえ、「もしや、自分に問題があるからではないか」と不安がる者さえいる。

就職、結婚、子育て、親孝行が幸福の証と信じた者だけが意固地になり、闇雲に守り、人を評価し、問題意識をもっているだけのことであるのに、なぜかすべての人間がそうであるかのように考えてしまう。

ブッダが語った「耽溺」「患い」「出離」で考えるなら、就職や家庭を幸福の物差しにしたから苦しんでいることになる。

いい仕事があれば働けばいい。あるいは、必要があれば働けばいい。

いい人がいれば結婚すればいい。あるいは、必要があれば結婚すればいい。

子どもが生まれれば育てればいい。あるいは、事情があって預かったのであれば育てればいい。

親が困っていれば助ければいい。あるいは、親に感謝したくなったときに感謝すればいい。

しなければならないからと言ってしかたなくそそぐ愛情は、あなたの本心から込み上げる愛情と同じものだろうか。

あなたは初めからなにも失っていない。与えるか、与えないか、ただそれだけの違いなのである。

訪れていない幸福が、まだ訪れていないからといって、悲しむ必要はなにもないのだ。

「さとり」を語ること

今朝、日本テレビの情報番組「ZIP!」でイチローの引退会見と、スタジオでの解説者・長谷川滋利のお話を視聴した。

解説者はイチローの元チームメートらしく、アメリカでいっしょに食事をしたこともあるそうだ。

彼は言った。「イチローは天才と言われるけれど、天才ではなく普通の人間で、努力をした人。天才だと簡単に言われると本人も嫌がる」

なるほど、確かにイチローは内向的感覚型だ。努力で成し遂げた偉業だと思う。

天才と普通の人の違いは何かを考えた。

私がさとったとして、人々にそれを伝えることは困難だと実感している。

私も普通の人間、人々も普通の人間だ。

教えればいいではないか。

イチローのように努力できるかは、教わる側の問題である。

イチロー自身も言った。「コーチは絶対に無理だ」と。

そうだ。教える側の能力の問題ではないのだ。

教わる側が、どれだけ努力できるかだ。

私は智慧を開示していこうと考えた。

同じ人間として、さとりを語ってみようと思う。

ここまで書いてみて、先ほどの「天才と普通の人の違いは何かを考えた」の答えになっていないように思われたかもしれない。

言い換えれば、イチローは天才だったことになる。なぜなら、どう努力したらいいか、自分で考えたからだ。

たとえ、いいコーチに恵まれたとしても、すべての選手が必ず上達するとは限らない。

その意味で、教える側の問題ではなく、教わる側の問題だとしたのだ。

教わる側がどれだけ努力を続けられたかが、やはり天才といえるものだ。

「天才」=「努力せずとも上達できる能力」という先入観が混乱を来している。

「努力」=「継続できる力」とすれば、少しはご理解いただけるだろうか。

「努力」と「工夫」は別のチャンネルなのだ。

煩悩の愚かさ

実に、実感するとは、知ることとちがうと思い知らされる。

釈迦は、煩悩や一切皆苦を語った。
衆生は無明(むみょう)を原因にして、苦しんでいるという。

本当にそう思う。
なぜなら、自分が思っている自己像と、実際の自分の姿はあまりにもかけ離れている。その思い違いが哀れで、醜い。

成長すること、大人になること、幸せになることとは、本当の自分の姿を受け入れることから始まる。それから目を背けて、成長も幸福も実現できない。

そして、厄介なことに、その不快感、苛立ちを人にぶつける。特に、真実を教えてくれた貴重な人物に真っ先にぶつける。あまりにも愚かで、見苦しい。

博多でバスジャックした若者は、乗客ひとりを殺した。その女性客は教師だった。

児童養護施設で育った青年が、児童養護施設でもっとも児童から尊敬され慕われていた職員を殺した。

大抵、逆恨みで無差別殺人が起きるとき、殺される人間は恨まれるはずのない善良な人物である。皮肉な話だ。

釈迦は煩悩の正体を語ったが、仏教では語り継がれていない。

人類は独自に科学を発展させてきた。釈迦はなにかを解明した。ならば、人類がたどり着いた科学的根拠を釈迦の論説に当てはめて、釈迦がなにを言わんとしているのか探ればいい話だ。宗教だ、信仰だ、ご利益だと言う前に、釈迦の本意をなぜ知ろうとしないのか。

釈迦は苦行を否定した。清浄行としての瞑想は勧めた。釈迦がなぜ苦行を否定したのかが重要なのだ。

人々よ、目を覚ませ。

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