Non-Duality Speaker , Early Buddhist Philosophy Teacher

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自殺する人としない人の違い

三浦春馬さんの自殺は世間を驚かせた。

真相は断定できず不明とされているが、原因の一つとされる「ネット上の誹謗中傷」は、近い時期に同じく自殺した女子プロレスラー木村花さんと同じ理由となることから、わたしは「ネット上の誹謗中傷で自殺する人としない人の違いは何だろうか」と気になった。

自殺をした有名人の遺書や親しい人の証言から「自分の求めているものや目指しているものと、現実での自分の在り方が食い違い、耐え切れなくなった」というものが多い。

自殺をしない人でも、その自殺理由に共感する者はいるだろうが、まったく共感できないどころか、同じ理由では自殺の発想をしないという者さえいる。恐らく、自殺をしない人と言い切れる人々だといえるだろう。

では、自殺を予防する可能性を模索するうえで、自殺をしない人の考え方が参考になるのではないかと思うのだが、そのような風潮は見受けられない。

それは「共感できる人」を「人の心が分かる人」と解釈する傾向が少なからず社会の中にあり、自殺しない人たちは自殺する人に共感できなくても「人の心が分からない人」と言われてしまうことを避けて口をつぐむか、共感しているふりをしている可能性があるように思う。

結果として、別の理由で共感できない人が「一人の人間を自殺まで追い込む」事態は起きても、自殺してしまってからは「自殺に関してネガティブな発言はしない」という選択肢を選び、自分のふるまいを切り替えてしまって、自殺前と自殺後では場の空気の連続性が断たれてしまう。

これが自殺の真相をややこしくし、本人の思考と現実とのずれを感じさせ、解明を不可能にさせているように思われる。

「ネット上の誹謗中傷」を原因としない自殺のケースでは、闘病苦や借金苦、反社会勢力とのトラブル、うつ病などが考えられるが、「ネット上の誹謗中傷」が原因でうつ病になり自殺を選ぶことはあっても、「ネット上の誹謗中傷」と比べて闘病苦、借金苦、反社会勢力とのトラブルなどは明確な絶望を感じてしまうことは想像に難くない。

反対にいえば「ネット上の誹謗中傷」で明確な絶望があるとすれば、仕事に悪影響が出て、収入が激減したり、将来に不安を感じたりした場合に限る。

三浦春馬さんの自殺理由を理解しづらくさせているのは、正にこの部分なのである。仕事は順調であったし、周囲の人間からは心配する声はあっても、おおごとだとは思っていなかった。木村花さんもテレビの演出に屈服することなく闘えば、木村花さんを応援する者は多かったことだろう。

従って、三浦春馬さんにしても木村花さんにしてもうつ症状があったことは否めない。

さて、では自殺しない人がなぜうつ病にならないのかが重要となる。

「自分の求めているものや目指しているものと、現実での自分の在り方が食い違い、耐え切れなくなった」という聞き慣れた文言は、十分にうつ病の原因になるのかもしれない。

ならば、うつ病にならない人々は「自分の求めているものや目指しているものと、現実での自分の在り方が食い違い、耐え切れなくなった」という発想をしないということになる。

「自分の求めているもの」「自分が目指しているもの」と「現実での自分の在り方」が食い違うと、どのような苦痛が立ち現れるのだろうか。

この考察は、次回、掘り下げる。

未曾有のパンデミックに見る違和感の正体

これは人類の本質なのかもしれない。いや、もしかすると、これこそが人類を構造主義的に解釈する鍵なのではないか。
連日の報道では新型コロナウイルスによって「危機感が高まる情報」と「沈静化を促す情報」が入り乱れて、恐怖と安心とが繰り返し繰り返し伝えられる。
これに対し、世間では「過剰に反応し、警戒する人々」と「安易に考え、平常時と変わらない人々」に分かれた。
すると、報道は過熱する。「過剰に反応し、警戒する人々」に向かって「沈静化を促す情報」を流し、「安易に考え、平常時と変わらない人々」には「危機感が高まる情報」を送るのだ。
問題は、これら真逆の情報が同一のメディア、同一の発信者から一般の一人一人に向けて無差別に繰り返し繰り返し伝えられていることなのである。一般人各自はどちらの情報も自分へ向けてのメッセージに解釈してしまうのだ。
もはや、危機なのか、安全なのか、メッセージの趣旨がつかめなくなる。

どうやら、私たちの脳は、このように真逆の意味が入り交じった情報に遭遇すると理解できないばかりか、ストレスに感じて不可解な行動に出るようである。
その最たるものが「デマに翻弄される人々」や「買い込み」「差別」である。マスク不足を防ぐためのマスク転売禁止によって、手作りマスクの販売までも禁止する事態も含まれるかもしれない。

私はこの違和感について早くから興味を抱いていたが、そもそもの新型コロナウイルスの情報の解釈に苦悩した。新型ウイルスであるがゆえに科学的解明が遅れているが、それは発信者にとっては「警告し過ぎてもだめ」「安心させ過ぎてもだめ」というジレンマに陥ざるを得ないものである。そんなジレンマが解消されないまま報道では発信し続けなければならないのであるから、解釈の苦悩は当然だ。
そこで、私は安易に新情報さえそろえば、この苦悩から解放されると考えた。ジレンマさえなくなれば、一般の人々の混乱はなくなると思えたのだ。
私は早速、有効活用が可能なレベルに達した新情報を集めて「コロナ・パンデミック?」を書いた。2020年2月20日付である。

1月から注目され、2月から騒動が起き、3月には全世界でパニックを起こしている新型コロナウイルスについて3月25日現在、報道の努力によって新情報がほぼ出そろい、今の私がわざわざ発信せずとも周知の事実になったものと思われるのだが、私の分析に反して一般の人々の混乱は増しているように見える。
私が抱いた違和感は世間では解消されていないのだ。私自身が感じていた違和感は「コロナ・パンデミック?」の記事でまとめることによって解消されている。世間に蔓延している混乱は、私自身が感じていた違和感とはそもそもの原因が違うようだ。

数か月前から、平均IQの人々の思考パターンを理解するために認知バイアスを調べていた。そのほか、脳科学関連書籍にも目を通していた。
世間の人々が未曾有のパンデミックに遭遇して、認知的不協和に苦しんだり、正常性バイアスによって危機感が薄らいだりすることは理解できる。
そのため、認知的不協和と正常性バイアスを解決するための情報整理を「コロナ・パンデミック?」にて自分なりに実現したわけだが、今回の文章を書くにあたり、もうひとつの理論、二重拘束(ダブルバインド)を思い出した。
調べてみると、一般の人々の不可解な行動は、ダブルバインド・セオリーにおける被害者の症状と一致しているように見える。症状とは以下の3つである。

  • 言葉に表されていない意味にばかり偏執する(妄想型)
  • 言葉の文字通りの意味にしか反応しなくなる(破瓜型:はかがた)
  • コミュニケーションそのものから逃避する(緊張型)

引用:ダブルバインド – Wikipedia

妄想型は「たいしたことない」「自分の周囲には感染者はいない」「マスクの生産によって紙が不足し、トイレットペーパーが足りなくなる」などである。
破瓜型は「感染したら死ぬ」「出歩けない」「風邪の症状が出たらすぐに相談センターや医療機関に相談する」「デマを信じる」などである。
緊張型は「感染を恐れて仕事を退職する」「外出を一切しない」「マスクをせずに咳をしている人がいたら感染者の可能性があるので排除する」などである。
二重拘束は二重規範(ダブルスタンダード)のように区別がつきづらい可能性があり、多くの者が自覚せずにこの症状で正気を失っていると思われる。

この症状を自覚できない脳は、メッセージとメタメッセージが矛盾するコミュニケーション状況におかれると、認知的不協和にさらされて、矛盾を解決できない場合にこの症状に見舞われるのだろう。
新型コロナウイルスの例に照らすと、報道による危機的メッセージと、あまり感染者がいないように見える日常のメタメッセージとの矛盾が解決できないと、「買い込み」「差別」「デマに翻弄される」という事態に陥るということである。
反対に「買い込み」「差別」「デマに翻弄される」といったことがない人々は、自らのIQによって矛盾を解消し、ダブルバインドに陥っていないということになる。
「買い込み」「差別」「デマ」が社会現象になっていることから、平均IQではこの矛盾を解消できないということなのだろう。
これでは個人主義を貫き、自己責任に任せると全世界が無法地帯と化す。それがこのたびのパンデミックの世界の実情だということである。

その解決方法はないのであろうか。
方法を見つけることは簡単である。矛盾を自力で解消できない人々に向けて、矛盾を解消した考え方を提供すればいいのである。
報道は事実を伝えることが主目的であるが、事実のみを提供して、判断は各自に任せるとしてしまうと、必ずしも正しい理解には到達しない。というか、絶対に到達できない。
それよりも専門家の見解を明確にして、出た結論のみを伝えることのほうが、社会的混乱を防ぐことができる。ここまで来ると報道の範疇を超えるため、政治家が引き受け、報道は仲介のみにするのが相当だろう。

さまざま報道される世界の実情から、もっとも印象的だったニュースがあった。「『買い占めはやめて!』48時間勤務の看護師、食べ物を確保できず涙の訴え – BBCニュース」である。

新型コロナウイルスの感染拡大を受け、多くの国で買い占めが起きている。
こうした中、1人の疲弊した看護師が、買い占める人々に対し、ほかの人のことを考えるよう涙ながらに訴えた。
イギリス・ヨーク在住のドーン・ビルバラさんは、救命救急の看護師として働いている。
48時間勤務を終えて立ち寄ったスーパーマーケットの棚には、野菜や果物は残っていなかったという。
ビルバラさんは、人々が具合が悪くなった時に治療に当たるのは、自分のような英国民保健サービス(NHS)のスタッフであり、任務を遂行するには健康を維持する必要があると説明。買い占めをやめるよう求めた。

これは一個人が世間の一人一人に訴えてどうにかなるものではない。有志が集まり組織的に解決するか、先ほどの私の提言のように国や自治体が医療従事者を保護するべき問題である。
人類は各自の判断によって社会を動かすことができない。二重拘束に至ると妄想型、破瓜型、緊張型の3パターンに分かれる。正確に言えば二重拘束に陥らなかった高IQの人々も含めて4パターンになるだろう。
高IQの者が革命家となり、最良の方法を実現するため、平均IQの人々を扇動し、社会の構造を変えていく努力をしなければ、社会は崩壊に向かう。
さあ、あなたはダブルバインド・セオリーでいう被害者であろうか。それとも、ダブルバインドに陥らない革命家であろうか。
あなたはどちらでありたいだろうか。

山里亮太さんと蒼井優さんはなぜ相性がいいか

お笑いタレントの山里亮太さんと女優の蒼井優さんが結婚を発表した。スポーツ新聞でスクープされたことから、昨日から今日にかけてネットでもテレビでもこの話題で持ちきりである。
意外な組み合わせから私も驚きはしたが、耳を疑うほどではなかった。特段、興味があるわけではなく、記者会見の模様を後々のテレビ番組で見られればいいだろうというくらいだった。
一夜明けて、たまたま早朝の情報番組のチャンネルのままにしてあったので、山里亮太さんと蒼井優さんの記者会見の模様が勝手に耳に入ってきた。

VTRの画面からスタジオに戻ると、MCかコメンテーターの女性が涙ぐみながら感動している姿があった。私はそこに驚いた。
まあ、その女性の個人的な感想である。しかし、もしかすると世間では、このような結婚はただ有名人だというだけではなく、別の理由での注目理由があるのかもしれないと、私は考え直した。
そこで、続けて放送されたテレビ番組『スッキリ』で山里亮太さんが生出演することは昨日の放送で聞いていたので、張り付くほどではないにしても、山里亮太さんの話を聞く人々の反応をしっかり見届けることにした。

さすがに山里亮太さん自身がレギュラーであるだけあって、情報番組でありながらニュースもそこそこに、この夫婦の結婚報道の特集が組まれていた。
記者会見の模様と山里亮太さん自身の話を聞く出演者は、日ごろの交流から、初めて聞かされるふたりのいきさつに興味津々であったが、加藤浩次さんも近藤春菜さんも水卜麻美さんも飛び上がるほどに驚いていた。
その驚かれるひとつひとつのエピソードは、一般にはかなりのレアケースに聞こえたのだろう。

しかし、私には当然のことに思えた。ふたりが結婚したと初めて聞いたときから、それぞれの性格を考えると違和感がなかったからだ。
世間ではよほど奇妙に見えているようなので、ふたりの相性と結婚までのいきさつの特異性を、当人たちの性格から自然であることを解説したい。
これは占いではない。心理学的類型や遺伝子で決まる性格のように科学的に解明できるものである。

人間には4種類の性格がある。99年前の1920年に発行された『心理学的類型』に基づいている。
山里亮太さんは外向的直観型である。女性アイドルとの仕事が多かったにもかかわらず、不祥事がほとんど聞かれないことから、モテない男を率先して演じている。容姿がモテるほうではなかったことから、モテない男であることを前提にしたほうが、心理的に楽だからだ。
蒼井優さんは内向的直観型である。わかりやすくいえば、不器用で天然という表現になるだろうか。

ふたりに共通する直観型は一言では表せない複雑な個性をもっている。束縛を嫌い、常識にこだわらず、新しいことに興奮する傾向がある。何に興味を示すかどうかは、本人が初めての体験と感じるかどうかが鍵となるので、周囲の人から見れば、なぜそれが好きなのかについて困惑する場面が多い。
そういった新奇性を好む衝動をもちながら、人と同じことをするのも嫌うため、個性的なルールを定め、自分自身に課している。そのルールから外れることを極端に避けるため、初めての体験に感動しながら、かねてからの自己ルールは守るといった、新しい自分になりたいのか、古い自分を固持したいのか、どちらなのかがまったくつかめないという複雑さなのだ。
そして、さらに困ったことに、本人にも自分のこれからの行動が予測できない。むしろ、それを楽しんでさえいるふしがある。

山里亮太さんは、この性質をもちながらも外向的であるために、周期的なレギュラー番組に相当な精神力をもって取り組んでいる。新奇性への衝動からマンネリは壊したくなるのだが、不安定な仕事柄、安定した出演はたいせつにすることが望ましい。それは相当な精神力である。同じ外向的直観型でマンネリを壊してしまった中田敦彦さんとは対照的だ。
蒼井優さんは内向的であるから、マンネリを壊したくなる衝動に逆らうことはかなりむずかしい。外向的な直観型ほど器用ではないから、無茶な行動は勇気が出ず、控える傾向にあるが、極度なストレスにさらされると、マンネリを壊す衝動は誰にも止められなくなる。それを繰り返しているのが遠野なぎこさんである。小沢真珠さんもそうであるし、このような女優は数えればキリがないほどいる。

今回の記者会見で感動を呼んだポイントは、たった交際2か月で結婚を決めて入籍し、記者会見で違和感なく、情熱的になりすぎることもなく、自然に仲睦まじいやり取りが見られたからのようだ。
それは、ふたりが同じ直観型だからである。同じ性格類型だと、間の取り方が同じになり、阿吽の呼吸のように、あるいは、長年連れ添った夫婦のように、自然とやり取りができる。
加えて、片方が外向的であり、もう片方が内向的であるから、外向的なほうが内向的な相手に寄り添うことで、衝突を避けられる。互いに同じ外向的であるか、同じ内向的であると、阿吽の呼吸で衝突もする。

あと、直観型の傾向として、周囲からつかみきれない性格と思われて生きてきたことから、自分はかなり特殊な性格だと思い込んでいることが多い。
その特殊だと思っている者同士が出会って、似た価値観をもっていることに気づくと、互いに衝撃を受け、運命だとさえ感じる者もいる。
それが、ふたりの早い入籍に関する心理分析である。

さて、芸能人同士の結婚は離婚が珍しくなかったり、交際期間が短かければ夫婦の期間も短いと思われていたりといった、過剰な離婚報道のためか、仲睦まじい夫婦は珍しいという錯覚があるものだが、ふたりの今後の相性についても触れておく。
さきほど引き合いに出した中田敦彦さんの場合、結婚相手の福田萌さんが外向的感覚型だから、内助の功に徹するため夫婦の破綻は考えにくいが、山里亮太さんと蒼井優さんの場合はどちらも内助の功に徹する性質はもたない。
また「口は災いの元」といわれるとおり、直観型は言葉が過ぎるところがあり、山里亮太さんが何らかのストレスで蒼井優さんに八つ当たりしてしまうと、蒼井優さんはマンネリを壊す衝動を抑えられなくなり、一気に愛情が冷めて離婚を決断する可能性が高い。
その意味では、世間の人々が想像しているとおりかもしれない。山里亮太さんが蒼井優さんに見限られたら終わりであるといえる。
実際、今回の急激なふたりの接近は、山里亮太さんが蒼井優さんを楽しく笑わせていることが、蒼井優さんの新奇性を好む衝動を満たしているからである。ふたりのよい関係が続くためには、蒼井優さんを飽きさせないことが必須なのである。
これは断じて、山里亮太さんの外見上の魅力の問題ではない。蒼井優さんは、たとえ美男子と結婚しても、同じ理由で離婚する可能性を秘めた性格なのである。

ここまできて、念を押して伝えたいことは、ふたりの相性の良さは当然であり、なんらかの別の理由で思い込みが激しくなり、勘違いして結婚したものではなく、純粋にふたりの間には愛がある。
ただ、直観型にはマンネリを壊したい衝動があり、それをふたりとももっていることが離婚のリスクとして注意が必要なのである。

松本人志の「不良品」発言に反論多数?

松本人志さんが殺人犯罪者について「人間の不良品」発言をしたことで、世間では物議を醸しているようだ。

ネットで検索してみると、座間9遺体事件についての発言では、松本人志さんの意見は肯定的に受け止められたらしい。
ところが、今回の川崎殺傷事件でも同様の発言をすると、女優の東ちづるさんを筆頭に、松本人志さんの「人間の不良品」発言に批判が相次いだ。
そのほかに、松本人志さんの発言と太田光さんの発言が比較され、太田光さんは「人の命を大切に思えない」時期があったことから、殺人者は身近な問題で予防できる可能性を語り、世間から称賛されたようだ。

東ちづるさんの気持ちもわかる。太田光さんの気持ちもわかる。松本人志さんの気持ちもわかる。三者は同じ土俵に乗っていないのに、東ちづるさんを含めて見聞きした方々は、座間9遺体事件の頃のことは含めて、あるいは区別して、川崎殺傷事件の殺人者を擁護したいようだ。
不良品という言葉が「修理不可能なもの」といった勝手な拡大解釈が、語弊を生んでしまったのだろう。
ここでは「不良品は修理可能なもの」として、読解していただきたい。

さて、私は誰も擁護しないが、座間9遺体事件の殺人者も、川崎殺傷事件の殺人者も、良品とは思えない。自殺希望者の財産を奪い、自殺を手伝って遺体をバラバラにして隠蔽し、次の獲物を探しているような人間と同じことは私にはできない。川崎殺傷事件のように、小学生を含めた20人を殺そうとするような人間と同じことは私にはできない。
良品ではないからこそ、カウンセリングや治療が必要なのであろう。やさしくいえばそういうことにはなる。
ここで、私は問いたい。安直に批判する方々は、殺人者の異常行動が先天的なものか、後天的なものかも知らずに、更生を協力できるのだろうか。
もっといえば、刑務所出所者の差別をまったくしない人々なのだろうか。

医学的にも倫理的にも重大な問題があり、真実が伏せられている可能性がある。優生思想を安易に持ち出す批判者がいらっしゃったようであるが、優生思想は「修理不可能なもの」という前提がある。もし、医学的に修理不可能なものがあるとしたら、それでも人権を優先し、社会の中に放置するのだろうか。
残念ながら、先天的に攻撃的な、反社会的な遺伝子をもった人間が存在することは、公正な記録で観察されている。しかし、人類は彼らをどのように扱ったらよいかの答えをまだ出せていない。

我々は、高確率で犯罪を犯す人間を、事前に知りながらも阻止する手段をもたないのだ。

農林水産省の元事務次官、熊澤英昭容疑者が、息子である熊澤英一郎さんを殺した動機として、日ごろ家庭内暴力を受けているなかで、近所の運動会の子どもたちの声に息子がキレて「うるせえな。子供ぶっ殺すぞ」と発言していたことだと報道されている。殺された英一郎さん本人のTwitterでは、母親を殺す発言があったという。
息子の暴力に苦しんでいた老夫婦が、川崎殺傷事件のニュースを見て、どれだけ恐怖し、息子の言葉に危機感を抱いたことか。
もちろん、殺人は許されることではない。殺人をまだしていない息子が殺人をするかもしれないという可能性に対し、日ごろの暴力から「きっと私たちは殺される」「他人様の子どもに危害を加えるかもしれない」と思い込む精神疾患に陥ることは想像に難くない。
罪を償うつもりで、逃げも隠れもせず、息子を殺めて、自殺すらしない熊澤英昭容疑者を、誰が責められるのであろうか。

さらにいおう。自殺せず償う熊澤英昭容疑者(76歳)と、川崎殺傷事件で20人を殺傷したあとに自殺した岩崎隆一容疑者(51歳)とのあいだにある大きな違いを、あなたは説明できるだろうか。
もしも私が熊澤英昭容疑者の立場だったなら、身を呈して妻を守ろうとしたことだろう。他人様に危害を加えそうなら、息子を見張り続けたことだろう。これがヒントになるだろうか。

合理機能が考える「自分」

合理機能は、褒められることや尊敬されることを率先してやり、認められることで自己実現を目指す。
これは、非合理機能からすれば、他者からどう評価されるかを常に考え、他者に振り回されているように映る。なぜなら、他者から思い描かれている自分のイメージがよいものになることが自己実現であるから、それは他者由来であり、自分由来の目標がない。

この志向は、日ごろ繰り返される問題を生み出す。他者からよく見られる自分を目指すため、他者からどう評価されるかわからない初めての選択肢に向き合ったとき、合理機能は自分の判断で選択することができず、褒められる選択、あるいは、尊敬される選択を求めて周囲の人に聞いて回らなければならない。
そして、さらに困ったことに、周囲の人は必ずしも同じ答えを言わない。これでは、余計に迷ってしまう。
そんなときでも、褒められる自分、尊敬される自分を演じている彼らは、判断できない自分をさらけ出しながらも、褒められる自分、尊敬される自分を演じ続けようとする。選択さえ誤らなければ、判断に迷っているプロセスは、彼らにとって大きな問題ではない。

いよいよ選択を決断しなければならなくなると、もっとも尊敬を集めていそうな人間の意見に賛同したことにして、自分には非がない立ち位置を目指す。運悪く、よい意見に巡り合えなかったなら、自分では判断できずに迷い続けるか、選択肢の内容にクレームをつけて判断をキャンセルする。
いずれにしても合理機能の彼らは、みずからの選択の決断に責任を感じない。他者から褒められる選択、尊敬される選択をしているだけである。従っているだけの自分が責任を負わされることは、彼らにとって受け入れられないことなのだ。

非合理機能の者でも、発達心理学的に十分な社会性が育まれていないと、似たようなゴタゴタを起こす。ただ、明確に合理機能と違う点は、非合理機能には好みという衝動があり、褒められるか、尊敬されるかにかかわらず、合理機能が驚くほどあっさりと選択の決断をすることがある。ここでいう好みとは、自分がしたいことかどうかだけではなく、人に迷惑をかけたくないといったことも含まれる。
だからといって、非合理機能の彼らはまったく後悔しない選択を常にできるわけではない。好みを原因にしてわがままに思われたり、迷惑をかけたくないつもりが、逆に迷惑をかけてしまったということもありうる。
非合理機能の彼らが自分の選択によってトラブルが起きた場合、社会性が育まれていなければ、合理機能と似た選択方法のため、責任転嫁を図る。社会性が育まれているかいないかにかかわらず、自分の好みの衝動で選択した場合は、すべてを自分のせいと思い込む。この点が、合理機能と決定的に違う点である。

合理機能の人々から見ると、非合理機能の彼らが自分のせいだと簡単に認める姿は、心当たりがあり、その失敗を認めたように映る。実力がないのに引き受けた無責任さを感じる。愚かに見え、嘲笑の対象となる。
心理学的に分析すれば、合理機能の人々のほうが、心当たりがあり、失敗を認めざるをえない場面を繰り返しており、実力のなさを日々痛感していることを意味する。非合理機能の人々は、自分の非を認めて謝罪する側の人間性をある程度、評価するから、愚かには見えても、嘲笑の対象とはしない。
非合理機能の人々を心理学的に分析すれば、自分のせいだと認めることは誠実なことだからとして、誠実な人と思われる幻想、あるいは、正直さから築かれる信頼関係の幻想をもっている。正直者は馬鹿を見るということわざは、彼らのことをいうのだろう。

非合理機能の着目するべき点として、自分がありたい姿や、自分が目指す目標をもっている。これは自分由来である。
それと比べて合理機能では、他者から見てあるべき自分の姿や目標に依存するため、参考にする他者が複数であったり、意見がわかれていたりすると、言動やこだわりがコロコロと変わりやすく、一貫したものがない。

合理機能の人々の中にある「自分」とは、どこにあり、どのように存在しているのであろうか。

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