Non-Duality Speaker , Early Buddhist Philosophy Teacher

カテゴリー: 出版 Page 1 of 2

仏教の本を出版したく

2019(令和元)年11月11日に「さとり」を体験したので、仏教の本を出版しようと考えた。

仏教の本を書く前に、私自身の体感だけを書くよりは、一般的に認知されている従来の仏教についても書き、比較するほうがわかりやすいと思い、膨大な資料を集めているが、非常にわかりやすいサイトがあって、かつ、Yahoo!ブログがサービスを終了するとのことで、ネット上から全削除される前に、そのサイトの記事をEvernoteによって保存している。

そのサイトの記事数も多く、一つひとつ保存作業を繰り返すなかで、Evernoteによる取り込み方のあいまいさに辟易した。同じ操作をしているのに、無事に保存されていない記事があったり、なぜか記事が取り込まれずコメント欄だけが保存されたりと、惨憺たるあいまいさである。保存できたつもりでできていない記事があってはまずい。全体の保存をほぼ終えた段階で、また全記事を1件ずつ表示させ、失敗する表示か確認して再保存したり、Evernoteの画面から保存に失敗している記事を探して、再度保存し直したりしている。

コンピュータとは正確な動作しかしない印象だが、まるで人間のようなあいまいさがあると、二度手間、三度手間となり、コンピュータの意味がないような気がしてくる。

もし、Yahoo!ブログでお気に入りの記事があり、運営者が放置しているブログなら、できるだけ早くに保存することをお勧めする。ネット上から消えてしまえば、もう調べようがないからだ。

「方」の「かた」か「ほう」か問題

2019年2月16日付けの記事「漢字を開く」で、私は単純に「ほう」はひらがな、「かた」は漢字で使い分けをすると紹介したが、業界で使われている辞典で調べてみると、そんな単純なものではなかった。

あらかじめ、ネットではどのように解説されているか調べてみると、やはり私と同じように自説を述べるか、各自の自由にするか、ケースバイケースかといったように、統一された見解はないようだ。

せっかくなので、業界で使われている辞典でどのように解説されているかを紹介したい。

  • 「考え方」「見方」「食べ方」など、方法については漢字になる。例外として「しかた」はひらがな。
  • 「○○様方」と宛名で書くときは漢字になる。
  • 「方がつく」は漢字になる。「片をつける」は別の漢字。
  • 「あのかた」「あちらのかた」「先生がた」などはひらがな。
  • 「南の方から」のように方角を示す場合は漢字になる。
  • 「大きいほう」「そのほうがいい」などのような選択肢はひらがなになる。

言葉では説明しづらいが、方法を意味するときは「方」、人を意味するときは「かた」、方角を意味するときは「方」、選択肢を意味するときは「ほう」と覚えればいいだろう。

このように明確なルールがあるようだが、一見しただけではわかりづらいためか、この使い分けはあまり普及していないようだ。

本を書くメリット

ちょっとおかしな話だが、心理学的にメリットがある体験をした。
体験をしたというか、聞いた話なのだが、私が執筆にかかわっているので、私の体験のように勉強になったというほうが正しい。

人は、会って話をすると、そこに事情や立場関係が絡んで、同じ内容の会話でも意味が微妙に変わるものである。
成人し社会に出ると、仕事や結婚などで誰しも悩みを抱えている。親戚や友人だけではなく、近所づきあいでさえもいろいろ気をつけなければならない。

いちばんわかりやすい例え話は、「お金がなくてたいへん」という一言だろうか。「ああ、お金がない」という言葉を口癖にしている人は意外に多い。この言葉は場面によっていろいろと意味が変わってしまう。
経営者や資産家が言う場合、「お金があるように思われているけれど、そんなに自由に使えるお金なんてないのよ。将来のこと考えたら、とても使えないわ」となるだろうか。
家庭がある人ならば「突然の出費があるので、備えておかないといけない」、働いている人ならば「借金の返済があるから、稼いだ分は丸々使えるわけではない」、貯金がない人なら「貯金しないといけないのに、思うようにできていない」という意味になるだろう。

しかし、人には言えない事情というものがある。親の介護でお金がかかっているのかもしれない。または、トラブルに巻き込まれているかもしれない。仕事が見つからず、本当に収入がないのかもしれない。

これは例えであるから本当にそうだというわけではないが、社会人同士が会話のなかで「お金がない」と言ったところで、「本当はたんまり貯金しているんでしょ」と受け取られたり、「奢ってほしいのかしら」と誤解されたりする。たとえ、「トラブルに巻き込まれて困っているの……」と訴えても、それさえも「奢ってもらうための巧妙な嘘で、本当はお金を使いたくないからだ」と思われかねない。

世の中、こういったコミュニケーション上の誤解は日常茶飯事で、職場での人間関係トラブルはこれに尽きるといえる。
何を言っても理解されず、自分の本当の思いは伝わらない。

ところが、書籍に自分の人生を書き、過去の事情を会話で伝えるのではなく、すべてを書いた本を相手に読んでもらうと、思いのほか理解されるという体験をした。

おそらく、会話では「どういうつもりで、そんなことを言っているのだろう」と考えながら聞いている相手に、まず警戒心を解いたり、共感を得たりして、真意を理解してもらう準備が必要である。
それに比べて、本の場合は内容のおもしろさも重要であるが、「どういうつもりで……云々」はなく、ストーリーとして内容を読み取り、順番に経緯が入ってくるから、すなおに理解されるのであろう。
もちろん、恣意的にロマンチックにしたり、自己正当化していたりする内容では「どういうつもりで、そんなことを書いているのだろう」と思われてしまう。過剰な表現はなしにして、場面を描いていくことが求められる。

確かに、わざわざ書籍のなかで「お金がない」と繰り返し書くことは考えにくい。もし、詐欺事件に巻き込まれた経緯を書いた本なら、場面ごとの事情がつかめ、だまされた側には問題が少なかったと理解を示しやすい。テレビ番組なら再現VTRのような役割になる。

そういった意味で、あなたがあなた自身の物語を本に著すことは有用であるといえる。家族に宛てた手紙のように、読み手の涙を誘うかもしれない。

そして、もうひとつ。
書いた本人が、よりいっそう自分自身を理解する一助にもなると、まちがいなくいえる。この効果は絶大である。無意味のような人生が、閑散としたかのような人生が、彩りをもってあなた自身を祝福することだろう。

ブッダの真意を伝える

まだ未完成なサイトだが、記事を書き始めている。

https://satori-lesson.com/

導入したWordpressテーマが高機能なため、まだデザインと構成と設定が定まっていない。
とりあえずは、ブッダと同じ時代に生きた修行者や思想家たちを投稿した。
これらの記事をまとめて、本にしたいと思う。

名文『みっともなくうろたえたい』

昔、Tumblrでリブログしていた記事をたまたま読んだ。
なぜか心に残る名文だなあ、と思った文章を再びかみしめて読み、私の文章との違いは何か、気になった。

その名文とは「槙野さやか」さんの『みっともなくうろたえたい』である。

最近彼女ができまして、と彼は言った。私はおめでとうと言って拍手をした。
私は他人が誰かと親密になった話を聞くと高揚し、その人の肩をばんばんたたいて、「いいぞもっとやれ」と言いたくなる。祝福の気持ちにしては盛りあがりすぎなので、他人の私生活に関する話が好きなだけなんじゃないかと思う。下世話なのだ。
彼はでも、と付けたした。でも、この年になるとなんだかいろいろスムーズで、ちょっとかなしくもあるんですよ。
どういう意味でしょうと訊くと、彼は言う。
彼女とは仕事の関係で知りあったんですけど、すてきな人だなって思って、連絡先を渡すじゃないですか。で、メールを出したら感じのいいメールが返ってきて、何回かやりとりして、食事に誘う。桜の時期だったから、少し散歩して観たりする。また食事に誘う。「あなたと一緒にいると楽しい」という意味のことを伝えて反応をみる。嫌じゃなさそうだからもうちょっと踏みこんでみる。そういう手順に、もう慣れちゃってるんです。うまくいきそうだなっていうのもわかる。まあ、もう三十すぎてますしね、順当なことではあるんですけれども。
いいことじゃないですか、スムーズなのってすごく大切なことですよ、と私は言う。彼は曖昧に笑って何度かためらってから、ぽつりぽつりと続ける。
こんなにスムーズなのは、彼女のことを身も世もなく好きなわけじゃないからだと思うんです。なんていうか、僕も相手にとって、ただの適切な人材なんだと思うんです。いえ、それでいいんですよ、世の中の大半のカップルはそういうふうにしてくっつくんだし、僕だってそうでした。
私は目で彼に話のつづきをうながす。彼は自分が話しすぎることを気にして途中で切りあげるタイプだ。彼はまた少し間をあけて、それから滞留していた水が流れだすように語る。
以前は僕も相手も、少なくとも必死でした、一生懸命だったし、精一杯だった、どうしていいかわからない場面が多いから、しょっちゅう頓珍漢な真似をしていた。そんなだからこそ、自分たちのしていることに幻想を抱くことができたんです。なにか重大な、美しい事件が起きているように思えました。でも今はそうじゃない、僕らはいろんなことが上手になってしまった、あなたはそれをいいことだって言う、でも僕はそうは思わない、正しい手順で要領よくものごとをすすめるなんてさびしいことです。
運命の恋みたいじゃないのがさびしいんですかと私は訊く。彼は首を横に振る。いいえ、僕はそんなものはないと思います。そうじゃなくて、年をとってみっともなくうろたえなくなったのがさびしいんです。僕はいつもはじめてのように、それをしたいのに。

心に沁みる単語が少しずつ、そして、後半に向けて盛り上がるように散りばめられている。
初めは表面的なやり取りからなにげない会話のように展開する。それをいったん破壊するように、「彼」の本音の吐露によって共感や暴露がスパイスのように描かれ、「私」は対抗するかのように予定調和的な肯定を投げかける。
「彼」はひるまない。「身も世もなく好き」なわけじゃないという表現がカウンターパンチのごとく、予定調和的な肯定をあっさりと打ち砕く。「身も世もなく好き」という美しい言葉を「なわけじゃない」と打ち消してしまうところが、「彼」のもの悲しさを感じさせる。
「彼」は「頓珍漢な真似」「幻想」という切り捨てるような言葉を使いながら、「なにか重大な、美しい事件が起きているように思えました」と美しい表現で、懐古するように訴える。
「彼」が抱く憧憬を失う原因になったのは、失敗しないように努力した自分自身が成長し、上手になり、要領よくなってしまったことにあるという。
そして、最後に美しい言葉で締める。「僕はいつもはじめてのように、それをしたいのに」と。

会話がメインの文章だが、地の文のなかにほとんどの会話が含まれていて、ほぼカギカッコがない。
たった2か所だけ、わざとカギカッコが使われているが、それは二人の会話ではなく、「言いたくなる」ことか、または「第三者に伝えた」こととしている。カギカッコは一見、強調のようにも見えるが、槙野さやかさんは「二人のあいだの会話ではない」という意味合いで使っている。

カギカッコがなく、漢字を多く開き、平仮名の羅列が延々と続くようにも見えるが、決して読みづらいわけではない。「である調」と「ですます調」の混在も違和感なく読むことができ、地の文と会話文をそれで分けていることが見て取れる。

ピカソは、絵画の技術が秀でているからこそ、一見、目茶苦茶な作品でも評価された。この文章も編集としては目茶苦茶なルールに見えるが、作文技術をもっているからこそ、「二人のあいだの会話ではない」表現と、会話文としての表現を解説なしに読み手にそれとなく気づかせ、自然に読ませている。あまりの違和感のなさに、まるで一般的な編集のルールを守っているかのようだ。

その独特のルールのおかげで、「私」が読み手に向かって、自分の体験として伝えたいことを臨場感のある表現に仕上げている。「こんなことを言うやつがいたんだよ。なんか気になってさ」くらいの生々しさである。

この計算され尽くした文章には感嘆した。名文である。これだけの表現力を私も遊ぶように使いこなしたいと思った。
蛇足ながら、私も「みっともなくうろたえたい」と共感したというわけではない。「気持ちが伝わる文章だ」という喜びである。ブログではさまざまなかたが読まれるので、こういった誤解は多いので付け加えておく。

Page 1 of 2

Powered by WordPress & Theme by Anders Norén