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Non-Duality Speaker , Early Buddhist Philosophy Teacher

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さとると、うっかりがなくなる。

さとると、うっかりが多い人も、うっかりがほとんどなくなる。

朝、起きなければいけない時間の少し前に自然に目を覚ますし、必要なときに大切なことを思い出す。

人は、思い出すことを自分の力だと思っている。
でも、思い出すとき、思い出そうとして思い出すものではない。

すべては、本当の自分からのインスピレーションである。
起床時間も、必要なときに思い出すことも、本当の自分が気づかせる。

でも、自我は「自分で気づかなければならない」と騒ぐ。
忘れたらまずいとか、起きれなかったらどうしようとか、不安ばかり訴えてくる。

不安に思えば思うほど、うまくいかなくなる。不安に思えば思うほど、失敗する。
それは逆効果だ。

あなたを本当の意味で応援してくれるなら、不安をあおるのではなく、気づかせてくれる。
自我にだまされないことが、自分を信じること。すなわち、自信とは、本当の自分からのインスピレーションを待つことなんだ。

心の中の天使と悪魔は、両方とも

あなたの心の中で、善なる自分と悪なる自分が戦うとき、人は悪なる自分が自我だと思ってしまう。

小説でも、漫画でも、演劇でも、テレビドラマでも、映画でも、そう描かれている。

しかし、心理学では自分の本心を抑え込むことが、ストレスの原因になり、心や体の病気の原因になると考える。たとえ、善なる自分でも、悪なる自分でも、自分の本心を抑え込むことが病気の原因だ。

法曹では、あなたにとって善だと思っていても、相手にとって善だとは限らない。たとえ、あなたの善が正しかったとしても、それに相手が従うべきだとすれば、それは相手の自由意志を否定し、脅迫罪になる。法曹では万人の自由意志こそ善だとされる。

さとりと非二元では、善悪に分けることを問題視する。
善も悪も自由も束縛も、自我が生みだしたものである。
心の中の善なる自分も、悪なる自分も、どちらも自我であり、さとりや非二元からすればどちらも本当の自分の在り方ではない。

善なる自分がなんと言おうと、悪なる自分がなんと言おうと、あなたは変わる必要がないし、自分以外のものに変われないし、あなたは初めからあなたであり、真実である。

ただ、今まで自我を自分だと思い込んでいたことをやめるだけでいい。
すると、自然にすべてが解決する。

あなたは初めからひとつであり、善なる自分とか、悪なる自分とかに分裂していない。
それらを客観的に見ている存在のほうがあなたである。
そのあなたは、自我の自作自演を眺めている。
あなたの感情だと思われるものは自我の自作自演であり、あなたの思考だと思われるものも自我の自作自演である。

あなたは天使でもなければ、悪魔でもない。

気を使うこと、気を使わされること、気を使ってくれること。

気を使うことは愛だと思われている。

だから、恋人同士や家族間では、気を使ってあげないといけないと、みんなが思い込んでいる。

でも、気を使わなくても壊れない友情は親友だからだと思える。
気を使わなくても壊れない絆が家族だとも思っている。

それならば、気を使わないからといって「愛がない」「冷たい」といわれるのはなぜだろう。

よく考えてみてほしい。

気を使わせることは、自分の都合のいいことを相手に強要していることなのだ。
それはわがままであり、自己中心的な考え方。

じゃあ、気を使わなくてもいいのかというと、そうではない。

この答えがあなたにわかるだろうか。

気を使わなくてもいい程度の気遣いこそが大切なのである。
重荷にならない気遣い。
お返ししなくてもいい気遣い。
強要しない気遣い。

愛にルールは存在しない。
愛は与えるだけであり、受け取るだけであり、要求した途端に愛じゃなくなる。

あなたの都合を先読みする愛は、この世には存在しない。

さとると、自分と人を比べなくなる。劣等感はなくなり、優越感もなくなる。

自我は、人と同じか、人より上だと思えると安心する。
完璧な人間は存在しないから、叱られたとき、失敗したとき、欠点を気づかれたときに不安になる。

ある人は、相手より自分が上の部分(人望や美貌など)を探し、ひとつでも上の部分があれば安心する。
ある人は、権力(肩書)や経済力(財産や収入)、運動能力などで結果を残し優位に立とうとする。
ある人は価値のある自分。ある人は道徳的な自分。

ひととき安心しても、いつまた危機的状況になるかは予測ができない。
完璧な人間は存在しないから、目指すことはできても、その不安からは逃れられない。

自我は安心するために自分と人を比べようとするが、比べていること自体が不安があるからであり、比べるからこそ不安になるのである。

完璧な人間はひとりも存在しない。
だったら、比べたところで意味がないと受け入れることがさとりである。
比べることに本当に意味がないと受け入れたとき、突然、勝手に、不安が消える。

頭でそうだと知っても、自我は不安がる。
あなたに「人と比べなくて、自分は本当に自信をもてるのか?」と心の中で騒ぎ立てる。
それは、比べることに本当に意味がないと受け入れていないから、自我が消えないのだ。
受け入れたとき、勝手に不安が消える。

努力は、いらない。

さとると願いはなくなり、自然とうまくいく。

覚醒体験は一時的である。
自我があるとまた自我で考えてしまう。

私はいつもこう説明している。
「思いどおりになるが、思いどおりになるからこそ、願わなくなる。
願い事があるうちは、まだ思いどおりになることを受け入れていない」と。

だから、さとるとまったく悩まなくなる。迷わなくなる。
覚醒状態が常態化した「さとり」の状態になるためには、願ってしまう原因である不安を幻だと思い出すしかない。

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