Non-Duality Speaker , Early Buddhist Philosophy Teacher

タグ: さとり

The dynamics of the ego.

「最高の調味料は空腹」「最良の枕は睡眠不足」といった揶揄はよくいわれる。

若者は束縛されると自由を望み、結婚を反対されるとますます燃え上がる。

ブッダが「さとり」を語るとき、そんなつまらないことを言いたいわけではない。

すべての幸福、すべての目標、すべての希望がそういうものだと気づくこと、それを「さとり」と言った。

例えば、就職し、結婚し、家庭を築いて、子育てしたり、親孝行したりすることは、幸福の最たる理想形である。

それを幸福と信じた者は、失業すると路頭に迷う。離婚すれば絶望し、家族との離ればなれになる環境は苦しみを伴う。

そのため、失業や転職は避け、離婚は回避し、家族との関係を大切なものとする。

それを幸福と信じた者は、独身の者を憐れみ、離婚する者を軽蔑し、家族と離ればなれになった者を訝しがる。

なにか問題があって幸福になれないのではないかとさえ疑う。

実は問題がないと自覚している本人でさえ、「もしや、自分に問題があるからではないか」と不安がる者さえいる。

就職、結婚、子育て、親孝行が幸福の証と信じた者だけが意固地になり、闇雲に守り、人を評価し、問題意識をもっているだけのことであるのに、なぜかすべての人間がそうであるかのように考えてしまう。

ブッダが語った「耽溺」「患い」「出離」で考えるなら、就職や家庭を幸福の物差しにしたから苦しんでいることになる。

いい仕事があれば働けばいい。あるいは、必要があれば働けばいい。

いい人がいれば結婚すればいい。あるいは、必要があれば結婚すればいい。

子どもが生まれれば育てればいい。あるいは、事情があって預かったのであれば育てればいい。

親が困っていれば助ければいい。あるいは、親に感謝したくなったときに感謝すればいい。

しなければならないからと言ってしかたなくそそぐ愛情は、あなたの本心から込み上げる愛情と同じものだろうか。

あなたは初めからなにも失っていない。与えるか、与えないか、ただそれだけの違いなのである。

訪れていない幸福が、まだ訪れていないからといって、悲しむ必要はなにもないのだ。

「さとり」を語ること

今朝、日本テレビの情報番組「ZIP!」でイチローの引退会見と、スタジオでの解説者・長谷川滋利のお話を視聴した。

解説者はイチローの元チームメートらしく、アメリカでいっしょに食事をしたこともあるそうだ。

彼は言った。「イチローは天才と言われるけれど、天才ではなく普通の人間で、努力をした人。天才だと簡単に言われると本人も嫌がる」

なるほど、確かにイチローは内向的感覚型だ。努力で成し遂げた偉業だと思う。

天才と普通の人の違いは何かを考えた。

私がさとったとして、人々にそれを伝えることは困難だと実感している。

私も普通の人間、人々も普通の人間だ。

教えればいいではないか。

イチローのように努力できるかは、教わる側の問題である。

イチロー自身も言った。「コーチは絶対に無理だ」と。

そうだ。教える側の能力の問題ではないのだ。

教わる側が、どれだけ努力できるかだ。

私は智慧を開示していこうと考えた。

同じ人間として、さとりを語ってみようと思う。

ここまで書いてみて、先ほどの「天才と普通の人の違いは何かを考えた」の答えになっていないように思われたかもしれない。

言い換えれば、イチローは天才だったことになる。なぜなら、どう努力したらいいか、自分で考えたからだ。

たとえ、いいコーチに恵まれたとしても、すべての選手が必ず上達するとは限らない。

その意味で、教える側の問題ではなく、教わる側の問題だとしたのだ。

教わる側がどれだけ努力を続けられたかが、やはり天才といえるものだ。

「天才」=「努力せずとも上達できる能力」という先入観が混乱を来している。

「努力」=「継続できる力」とすれば、少しはご理解いただけるだろうか。

「努力」と「工夫」は別のチャンネルなのだ。

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