Non-Duality Speaker , Early Buddhist Philosophy Teacher

タグ: 江原啓之

霊感についての誤解

霊感について、他の霊能者も私と同じ失敗をしているように思われる相談者の体験談や、江原啓之氏批判で指摘されている苦情があり、非常に気になります。

率直に言って、その失敗の原因は霊感共通の特徴のようです。それを諸先輩方(江原氏などすでに有名な方々)はなぜ丁寧に事情を説明して一般の方々からの誤解を解かないのでしょう。

例えば「元彼と復縁できますか」と相談され、そう聞いた瞬間、霊感でその恋愛がスムーズか苦労を伴うかを先に感じ取ります。相談者が続けて「別れてからそんなにたっていません」と続けると一層具体的にイメージがわいてきます。先に苦労を伴うと感じた場合には、他の女性の気配とか、仕事が忙しいとか、何かが次に感じられるわけです。
その次のイメージがすぐわかないときがあります。その場合ただ「難しいでしょう」と一言伝えます。それに反応して相談者が思いの丈を語り出すと、そこで次のイメージがやっとわいてきて、他の女性の気配とか、仕事が忙しいとか、何かがやっと見えたりするので、それを伝えます。他の女性とすでに交際していた場合は、女性の気配を感じるので、そう伝えることになります。その事実を相談者が知っていた場合は「やっぱり」とか「どんな人ですか」とか何か答えますが、そこで精神集中するとどんな女性か見えてきます。
もしその女性と元彼が別れるとイメージがわくと、そこで「復縁の可能性がある」または「復縁はできないが元彼は今の彼女と続かない」のどちらかわいたイメージに近い説明を伝えます。元彼がその女性にふられて落ち込んだ場合、相談者に連絡を入れてくる可能性は高いのでそこに精神集中します。連絡を入れてくるかどうか、まだ未練があるかどうかに精神集中して、あるというイメージがわいて初めて「復縁できるから安心しなさい」と言えるようになります。

だから、霊感では一発ですべてのイメージがわくわけではありません。江原氏も然り、他の霊感占い師も然りです。

それを知らない相談者は初め「復縁は難しい」と聞いたのに、見てもらっている間に「復縁できるから安心しなさい」と言われ困惑される方がいらっしゃり、大抵そこで霊感占い師は詳しく語らず「女性の姿が見えたから」といったような弁解をします。相談者はなるほどと納得します。

でも実際はちがうのです。相談者との会話中に次々とイメージがわくのです。特に対面ではなく電話では声だけが頼りですので、一層そうです。

「オーラの泉」のスピリチュアル・チェックも似たような役割があります。事前にイメージをわきやすくするためです。実際、会わないと結構見えないからです。江原氏はよく言います。ゲストに向かって「実際どんな人か気にしてたんです」と。

また、江原氏のミスで指摘されているものでも気になるところがあります。霊感では生きている人の気持ちも、死んでいる人の気持ちも、キャッチしてしまいます。相談者の親の気持ちに精神集中すると、現在の親の気持ちがキャッチできます。正直に言って、生きていても死んでいてもキャッチできるので、生きているのか死んでいるのか区別できないのです。だから、相談者に聞きます。「オーラの泉」でも結構江原氏が口頭でゲストに聞いているのはそのためです。
生きているのか死んでいるのかわからないので、まったく聞かなかった場合に、死んでいるものと思い違いをしてしまうことがあります。すると、知らない人にしてみれば、生き霊でも見たのかという疑問になってしまうわけです。

なぜ、霊感占い師や霊能者はその点を正直に言わないのでしょう。言ったところで、知り得ぬ情報を言い当てたり、未来を当てたりする部分もあるのですから、霊視や透視がスムーズではないくらいで隠すことは必要ないと思います。

私は割りとぶっちゃけてます(笑)

All that is !

私の思想・哲学は、江原啓之氏やその通信霊である昌清の命、江原氏が感銘を受けたとされる外国の霊媒師が呼び出した高級霊で名はないが通称シルバーバーチなどの語る思想・哲学とは一線を画する。

私は善悪を超えている。悪事を許すのではない。過ちを許すのだ。

日本の方々は海外旅行で、外国人が些細なことでも謝らないことに驚くだろう。外国では悪意がなければ謝る必要がないと考える価値観が常識である。日本では古来、悪意がなくても人に迷惑をかけたのであれば謝るべきだという哲学がある。これは支那由来の儒教の思想ではない。インド由来の仏教でもない。日本固有の哲学であることを日本人は知らなければならない。これはこれで、一歩進んだ新しい解釈である。欧米社会でも子供同士の友情でよくテーマにされていることからも理解できる。しかし、欧米の大人社会で浸透しているとは言えない。

もっと解釈を進めると、本来悪意があったか、なかったかは、どうでもよいことである。許し合えるか、許し合えないかが、すべてである。許せない人、無責任な人が多いからという理由で、マナーや法律が存在するのだ。そのとき、普遍の悪事が社会の中で決定してしまう。悪人と言われる人が増えてしまう。分離が生まれ、理解が遠のく。

許し合えるか、許し合えないかで問題になるのは、自分自身はどうなのかである。自分は相手を許せるか、許せないかなのである。ここで重要なのは「罪を憎んで人を憎まず」だ。これは支那由来の儒教の思想・哲学である。支那においても儒教文化の韓半島においても理解されているとは思われないが、日本固有の哲学ではないにしても十世紀以上にもわたって日本において好まれた考え方である。

悪事を許すのではない。過ちを許すのだ。

相手を憎まない。相手を常に許すことだ。

江原氏においても、シルバーバーチにおいても、物事の善悪が問われている。常に許されるものに善悪を問う必要性は何もない。

私のカウンセリングに愛が感じられるのはそこなのだ。だから私は相談者を叱らない。行動の矛盾点は指摘するが、過去を否定したり、未熟さを気づかせたり、落ち込ませるようなことはしない。

すべてに偶然がないのなら、善悪もないことを意味するからだ。

そして、心を入れ替えるだけで幸せになる人がほとんどである。それこそが証明である。善行が報われるのではない、悪行をつぐなわされるのではない、すべての偶然はあなたに気づかせるためである。気づき実践することで、人生は幸福のみになる。

Powered by WordPress & Theme by Anders Norén